森琴石(もりきんせき)1843~1921
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森琴石 調査情報

平成10年10月~現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成17年(2月)

江戸後期の大坂で、書画・詩文・煎茶道・書誌・本草学・天文学など幅広い 分野で活躍し、各層に人脈を持つ木村蒹葭堂(きむら けんかどう)は、多くの文人 達の憧れと手本となった。爾来大坂では文人は一芸だけではなく、全てにわ たり広く奥義を究める事が常であった。その木村蒹葭堂のもとにしばしば通った ひとりに鼎春嶽(かなえ しゅんがく)という画家がいた注1。森琴石の師匠「鼎金城 (かなえ きんじょう)」の父である。鼎春嶽は「池大雅 いけ たいが」を師とする「福 原五岳ふくはら ごがく 注2」に学び、近世大阪画壇の一角を担った。香川県高松 市の「瀬戸内海歴史民族資料館」には、鼎春嶽の六曲一双屏風「四季耕作図 注 3」が所蔵されている。

 
 
  鼎金城については、後月ご紹介します。
注1   絵農書 二」(日本農書全集第72巻・1999年、社団法人 農山漁村文化協会発行)内、 解題:山本秀夫氏「鼎春嶽筆 農耕屏風」による。(関係人物紹介「鼎春嶽」をご覧ください)
注2   福原五岳=関係人物紹介「福原五岳」をご覧ください。

森琴石の儒学の師「妻鹿友樵 めが ゆうしょう」は、医薬を家業とし、諸学、武芸に通じ、七絃琴奏者としても当代随一を誇った。江戸に遊学し多くの文人墨客と交友する中、国事に憤慨し仲間と共に奔走したという。文久2年(1862)大坂に戻り道場を開き武芸を教授した。さらに道場の隣に漢学私塾を設けた。森琴石は元治2年3月(1865)から入門、漢籍詩文を学び、七絃琴の指導も受けていた。妻鹿友樵は功名を嫌ったため、人々から「大隠」と呼ばれ尊敬された。古器・古玩・古書画の蒐集なども趣味とし、清国文人とも交流を深めていた。

 
 
  妻鹿家の家業は代々播州の薬舗。後浪華江戸堀に出、医を業とした。妻鹿友樵は医・薬学を父に学び、後京都の「錦小路頼易※」に師事し内科医術を修行した。
※ 錦小路頼易=錦小路頼徳の養父
妻鹿友樵は儒学を「勝瀬馬洲」に学ぶ。勝瀬馬洲は阿波徳島の生まれの「古賀精里」を師とした。(勝瀬馬洲、古賀精里については下記をご参照ください。)
  妻鹿友樵は、剣は小野一刀流、弓は日置流、柔術は起倒流を学びいずれも免許皆伝、拳法も達人の域。
  妻鹿友樵は書と琴を僧「痴仙」に、絵画を「忍頂寺静村」に学んだ。痴仙については下記をご参照ください
  妻鹿友樵については、最新情報「平成12年8月」「平成13年7月」「平成16年6月、注釈最後尾」、 関係人物紹介「妻鹿友樵」などをご参照ください。
  森琴石が、妻鹿友樵に七絃琴を学び始めた正確な年月日は不明。
  参考文献:「妻鹿友樵伝」(妻鹿友一編集発行・昭和58年・非売品)・「大阪人物辞典」(三善貞司著・平成12年・清文堂刊)
 
   
勝瀬馬洲(かつせ ばしゅう)
    儒学者。寛政11年(1799)阿波生まれ。名は高資、字は士啓、通称啓十郎。江戸に遊学、古賀精里に入門し秀才のひとりに数えられた。大坂に移り開塾、忠信を重んじ華美を嫌い、孝悌を先んじて詞章を後にする学風で、多くの門人を得る。安政二年(1855)一月五六歳没。墓は竹林寺(西区本田一丁目)。「大阪人物辞典」(三善貞司著・平成12年・清文堂)
  古賀精里(こが せいり)
    江戸後期の儒学者。寛政の三博士の一人。名は樸(すなお)佐賀藩の人。はじめ陽明学、のち朱 子学を奉じ藩校の創設に尽力。幕府に登用され、昌平黌(しょうへいこう)の教官。著「四書集 釈」「近思録集説」など。(1750~1817)「広辞苑」
  僧 痴仙 (そう ちせん)
    雪堂又鳥海山人と号し、慧源上人と呼ぶ。出羽鶴岡の人。一向宗の僧であって、出羽青塚村寺の住職となる。琴を長崎で習い、次いで永田蘿堂及び中村太翁に就き修めた。文政11年大阪網島に定住し、弟子に琴並びに書を伝授した。嘉永6年6月1日歿。享年71才。「大阪人物辞典」(三善貞司著・平成12年・清文堂)

森家の曽祖父のひとり「入江俊次郎 いりえしゅんじろう 注1」の母方注2の祖父は、「武富圯南 たけとみ いなん 注3」という肥前佐賀藩の儒学者であった。入江俊次郎の曽祖父(入江又右衛門能賢)は、柳生流釼術百武家の百武善兵衛兼通が養子となっていた注4。次の代の、入江善右衛門兼朋も同じく百武家からの養子である。現在調査中であるが、森家の血縁縁者には著名人が少なからず存在したと伝えられている。

 
 
注1   最新情報「平成13年1月」をご参照ください。
入江俊次郎→早稲田大学史資料センター、〔早稲田大学写真データベース〕
注2  

入江俊次郎母「武富三保子・武富クラ子(継母)」は武富圯南の娘。い南継嗣は武富誠修。入江俊次郎の父は、入江兵之介(入江穆園)。
武富誠修氏は、成富兵庫茂安(1560~1654・現在の佐賀県佐賀市鍋島町増田に生まれ、佐賀藩の武士、土木技術者として生涯を送った)の石碑の碑文全文を書いている。石碑の表書:副島種臣、碑文撰文:久米邦武氏。文献:「佐賀郡誌」(昭和48年・社団法人 私立佐賀郡教育会編)・「大和町史」(昭和50年・大和町 史 編さん委員会編集発行)=佐賀県立図書館

大正初期、佐賀女性名士の名簿「佐賀同郷婦人会会員人名(大正5年12月調)」では、入江家本家の「入江 タツ」は、住所が「東京都麹町区永田町2-1 鍋島家御邸 」とある。当HPでも紹介がある、新潟五泉の文人画家「中野雪江」の身内で、大正天皇の「侍医頭」を努めた「入澤達吉」の妻「入澤常子」は、会頭鍋島侯爵夫人・副会頭大隈侯爵夫人、理事に続き、評議員として、名簿第11番目に名を連ねている。
資料名「佐賀」(大正5年12月発行)=佐賀県立図書館

 
注3  
武富圯南(たけとみ いなん)
    文化3-明治8(1806~1875) 教育者
佐賀城下白山町に生まれる。名は定保、字は元謨、通称は文之助、圯南、蜜庵、碧梧楼、かん翁と号した。始め中村嘉田に学び、後江戸に出て古賀とう庵の門に入り勉学三年、帰国して弘道館教授となる。晩年は佐賀八幡小路に嶽塾天燭塾をおこし、藩の文教に大いに功績があった。詩文、書画、音楽に堪能で、廃藩後は東京に移り、当時の儒者川田甕江信夫恕軒なども詩文の添削を請うていたほどである。墓は佐賀市元町の称念寺にある。
称念寺には、武富圯南と草場佩川との石碑が建てられている。
「佐賀幕末明治500人」(福岡博著・平成10年・佐賀新聞社刊):佐賀県立図書館より
  古賀とう庵(こが とうあん) 〔とう庵=(イ+同)庵〕
    江戸後期の儒学者。名は_。古賀精里の子。昌平黌の教官。著「劉子」「崇程」など。(1788~1847)「広辞苑」
  草場佩川(くさば はいせん)
    (1788~1867)
江戸後期の漢詩人。号はのち佩川。肥前の人。鍋島藩の支藩多久候の家臣。江戸に出て古賀精里に学び、後に本藩の儒者。朝鮮通 信使との詩の応酬で著名。著「佩川詩鈔」など。(広辞苑) *佩川の子、草場船山は、最新情報「平成15年8月、第二項目目」に記述があります。
 
注4   参考文献
1: 【系図 入江家(平野、安川家共)】(昭和17年12月・入江貞次郎氏作成)
入江貞次郎=「在京佐賀の代表的人物」(笠原廣編発行・大正7年)に紹介されている。
2: 「系図(イ)の部」四 鍋島文庫複本211-12
主水組入江又右衛門・入江善太夫(佐賀県立図書館)
3: 「諸芸師家系図」(佐賀県立図書館)
4: 「武富家伝記 略解」系図、奥附(佐賀県立図書館)

  百武一族の百武兼行については、最新情報「平成13年1月・注釈一番目」をご参照ください。
百武兼行については「百武・久米・岡田三人展」(同展図録・昭和49年・佐賀県立美術館)、「佐賀県大百科事典」(1983年・佐賀新聞社)での「百武兼行」記述文献がある。 (佐賀県立図書館より)

琴石が諸国漫遊した足跡や交友人脈には、先輩師匠や身内達から譲り受けた事が多いと思われる。規模や種類の違いこそあれ、広範囲にわたる交友や諸学諸芸の奥義に通じた事など、森琴石は、江戸後期木村蒹葭堂に見る「大阪の文人」を、明治期の時代に最も良く引き継いだようだ。



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