修 養 日 誌
相愛高等女学校 森 加津
(日記は、平成12年春、加津の2女「飯田知子」様よりご提供して頂いたものです)
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大正七年
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注釈 |
- 一月七日 (月) 晴
- 今日は七種ですから七種かゆを祝ひましたけれども祖父様が御加げんが悪く
一緒に祝はれなかったのは残念でございました 今日はお茶の先生の所の初
釜でしたが行かれませんでしたから下女をおことわりに差出しました
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- 二月十七日 (日) 晴
- 今日来年祖父様の喜寿のお祝ひの相談で午後から門人等がくるのでその準備
にいそがしかった。
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- 八月一日 (木) 晴
- (祖父様の病気祈願に行く)
小鳥の夢のまだ覚めやらぬ起き出で身支度もそこそこ家を出た 目的の地は
河内石切神社祖父様の御病気御平癒を奉る為七時前大軌大坂駅に到り乗込む
今日は生駒山の御名日にて乗客夥しく乗込むまでには小一時間も用したり
石切といへる停車場にて下車きた六丁にて神社に到着す 御祈とうをすまし
て家にかえったのは十二時前なり
夜寿ちゃん※らと箱庭を作る材料を求めに老松町へ行った
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※( )は、一部を除き
当方でつけた見出し。
以下同様。
※寿ちゃん=森寿太(琴石孫) |
- 八月廿八日 (水) 晴 小雨あり
- (祖父病気)※
今日は宝塚へ行くはずだったが祖父様がおわるいので中止になった
伯母様が九重さんととしちゃん※と弘ちゃんとで御見舞にいらっしゃった
松山さんがいらして祖父様に牛肉のソップ※よいと仰有ったので祖母様がか
ひにいらっしゃった
妹※が宿題のわからないのを教へてくれといったので教へた夕方は常よりいそがしく私は風呂焚きと水まき 妹は曽根崎へおつかひに行った
一日中の汗を風呂にながして風にふかれる
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※としちゃん=森寿太
※スープの事
※妹=加津妹(志げ)=明治40年生まれで現在101歳(2008年3月時点・当時の記憶は既に無いという)⇒平成19年9月注3 森家庭園:1
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- 八月丗一日 (土) 晴
- (祖父のことば)
今日は祖母様が前髪をわけてふくらますのをならって来たからといって下す
った
天長節の佳き日家毎に国旗をひらめかして戦争気分のみなぎった祝日である
昼祖父様のお給仕をしに行くと大へんかわった髪の結び方おして居るねとお
っしゃった 物ほしに登る階段はわりあひに涼しいのでそこへ本をもって居
て読みふけった
「夜おじい様が大へんお熱が出たので氷でひやすやら大騒ぎ
私のねたのは十時前過ぎからだった」
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- 九月四日 (水) 晴
- (祖父病気)
今日は大掃除なので朝早くおきた 祖父様が病気なのでお部屋とお座敷やめ
てそとだけした 七時頃手伝いが来てどんどん道具をはこび出している 私
は私の部屋だけしたおもい本箱をうんうんいひながらうごかして汗だくだく
ほんとに掃除は面白い 一時過ぎ検査が来たが私の部屋だけ早く畳を敷い
たが「よろしい」とすぐふだを呉れた
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- 九月五日 (木) 晴
- (おじ様の死、祖父の病気)
長い休みも今日でおしまいかと思ふと何だかなごりおしい様な気がするほん
とに今年の休暇は事故の多い夏休みだった先 渡部さんがなくなられる
米騒動がある シベリアへ我が軍が出征する
また今里のおぢ様※がなくなられる 「祖父様が御病気になるし」一日もたのしい
ことはなかったけれども明日からなつかしい先生や友だちに会われるか
と思へばうれしい
今日何かと一日中登校の準備にいそがしかった
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※今里氏=平成19年9月注3
森家庭園:1に、今里氏の娘
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- 十一月三日 (日) 晴
- (祖父の喜寿祝い※の準備)
今日は日曜だから髪をあらた余り餘り長く風呂に居たせいか少しのぼせた様
な気味があったがすぐなほった
午後伯父様と来年祖父様の喜のお祝につかふふくさを三越にあつらへに行っ
た 丁度今七階で婚礼調度陳列会があったので見た 十二ヶ月の紋付から
楽器箪笥長持何から何まであって目を驚かすばかりでした ほんとに立派で
した いや立派といふよりはぜい沢なものばかりでした
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※資料:「喜寿祝賀式次第(未)」 |
- 十一月十一日 (月) 晴
- (祖母様と沢庵を漬ける)
今日は祖母様が沢庵漬けを仕様とおっしゃったので沢山名古屋大根をかひま
した そしてそれを皆裏の物干でほす様にくくってはこびました 朝のうち
に羽織を仕上げてしまおうと えりのしつけをしました そして出来上がって
火のしをかけて 袖口やまちのしつけを取ってきれいにたヽんでおしをかけて
居ると 祖母様が■■を取ろうと思って一所懸命ですねとおっしゃった ほん
とにお口の悪い けれど実際はそうなんだからし方がない 夜国語の復習を
した
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- 十一月十二日 (火) 晴
- (喜寿祝い記念品の木像作り) ※
「今日は祖父様のお部屋の方に堀ごたつを作るので色々なものをかたづけて
祖父様はお座敷の方にお遷りになった 午前多田さんと彫刻師とが見えて祖
父様の木像をつくられた それは来年のお正月に祖父様の七十七のお祝に弟
子さん達が下さるのだそうな」
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※木像=平成20年10月に記述 |
- 十二月一日 (日) 晴
- (喜寿祝いの木像をいただく)
「今日は来年祖父様の七十七の祝ひにお弟子さん達が祖父様の木像を下さる
ので朝からいそがしかった」
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大正八年
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- 三月十九日 (水) 晴 後強雨雷鳴
- (お祖父さんの喜寿のお祝)※
午前伯母様の所へ行ってどうぞ午後からいらっして下さいといいに行く 伯
母様はおるすだったのでお八重にいっておく あまりちらかってゐるので茶
の間をかたずける 三時ごろから伯母様が寿ちゃんも※弘ちゃん※もつれていら
っしゃる 弘ちゃんはなかなか茶目さんで家中かけまわっていたずらをした
そして仕舞にお庭へ下りて大騒ぎ 祖父様のお愛しになた椿もいたずらさん
の手によってはかなく首をもぎとられ青い苔の上に血汐の様にすてられた
そしていたずらの真最中空模様は一変して雷鳴さへ聞こえたのでさすがの茶
目さんも母さんのふところにしがみついて早くかみなりをあっちへやってと
「今日は祖父様お誕生日なので晩さん会をひらいた 座敷へ一番おとその多
い祖父様の七十七から弘ちゃんの四の間に六人 これで家族はあつまった
御馳走は祖母様のお手料理 食後のだんらんも又たのしかった」
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※旧暦で祝ったようだ
※寿ちゃん=森寿太(琴石孫)
弘ちゃん=森弘(琴石孫)
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- 十月廿参日 (木) 晴後雨
- (加津の母「昇」死去のため東京へ)
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- 十月廿八日 (火) 晴 小雨あり
- (上野で帝展を観にいく)
午後上野竹の台の帝展を見に行く 時々細い雨が走り去るので観客は極めて
少い
私は池田輝方先生の蝶胡の流される絵や木曽路の夏がいヽと思った アヤ
取りといふのも可愛いヽと思った そこらをさまよって帰途につく頃は上野
の森は騒ぐ鳥の声に紫の夕はしづかにけぶってゐる
今日は大変早く起床したのでねむくて仕方がない
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大正九年
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- 二月十二日 (木)晴
- (祖父病気)
今日も又寒い手水鉢には厚い氷が張ってゐた 昨夜祖父様がお悪かったので
参時頃からおきたので今朝はねむくて仕方がない 裁縫の手縫ひでいヽとこ
りは一寸くけて、こうして日誌をかいていると眠くて眠くて仕方がない 何
だか地の底へでもひき入れられそうだ もうやめて早くねませう あヽそれ
から前家にゐた「まつや」が赤ん坊をつれてきた
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- 五月十二日 (水) 晴
- 〔祖父危篤〕
今日程私は真実の涙を流したことはなかった 四五日前から祖父様の御容態
がわるかったけれど 今朝はもう今にもおなくなりになるかと思った。私の頭
はすっかり空虚になってゐました。そして祖父様のこのお苦しみから一時も
早くすくひたひといふことだけが頭の中に一杯でした そうして涙だけ無意
識にながれました それもその時はしりません 後で袂がぬれていたので泣
いたのかしらと思ったのです 私はまだこんなことを経験したことはありま
せん ほんとに今日の日誌はどうしたのでせう あの複雑な心持ちがちっと
もあらわれないのですもの
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- 五月十三日 (木) 晴
- (祖父発作)
祖父様はあれから少し安静だったけれど今朝又再び発作的痙攣があった 昨
日で少し経験を得たからそんなにおどろかなかったけれどやっぱりかなしか
った
曽根崎の御父様※もいらっしゃったし ずっと心丈夫だった
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※ 森雄二のこと |
- 五月十四日 (金) 晴
- (祖父やや回復)
今日は祖父様がずっとよくおなりになったので私も祖母様もほっと安心して
そしてゆったりとした気持ちになれた
でもお胸を氷でひやしづめなので少しも油断が出来ない すきとほった氷を
強い針でこそこそと割る音 たまらなくさびしい 氷を割る音ほど淋しいも
のはないと思った
なんか和歌に詠めそうだけれどそれを考へるほど心に余裕はまだ出来ない
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- 七月十八日 (日) 晴
- (保さん※誕生命名)
試験や何かでしばらく御無沙汰してゐた伯母様の御家へ行く 寿ちゃん※が
姉ちゃんもうやすみ、えーなあって 一番にきかされた 赤ちゃんも伯母様も
おたっしゃだった 赤ちゃんの名はタモツ 保※と御命名になった タモちゃん
弘ちゃんなんかタマチャンなんてゐってゐる はいからな名だけれど保さん
といはなければならないのかしら めんどーな名だ タモチャンなんて変だ
もの
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※森保。婚姻で井上姓となる
※ 寿ちゃん=森寿太※ 森 保=森雄二の三男
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- 七月二十日 (火) 晴
- (保さんの出産祝い)
保さんのお祝ひになにがいヽかしらと祖母様とそれを買ひに三越へ行く 道
すがら渡邊さんの御家へよった 御門の脇の青ぎりが美しいと思った 私の
家にも青ぎりがあればいヽと思った
三越で可愛いレースの雪帽子があったのでそれをもとめた それはかわいい
帽子が沢山あった 私もこんな帽子をかぶって見たい 私の小さい時かぶっ
た帽子は白い毛糸であんだ帽子だったそうだ それをかぶると色が白くて目
が大きいので皆異人の子 異人の子といふのだそうな きっと長崎※だから異
人が多いのでそういふのだらう なつヵしい思ひ出
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※実父「堀木芳之助」が銀行勤務だったため、転勤が多く,長崎で生れた |
- 七月二十四日 (土) 晴 雨ふる
- (祖父病気)
夜祖母様にかわって祖父様の御介抱する 一時頃までおきてゐた
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(日誌は7月で終了)
- 7ヵ月後の 大正10年2月24日、森琴石は78歳の生涯を閉じました
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森家写真より
左:孫保(5ヶ月頃?)・琴石 |
左:孫寿太・・・森琴石、北区自宅の外観 |
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森琴石はふっくら写っている |
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- ◆森琴石の健康について
- ★森琴石は壮年時の15年間ほど「銅版」製作に携わった。銅版製作は、硫酸などの劇薬を扱う危険な作業を伴う。有害成分を吸引するなど、身体への負担は大きい。因果関係は判らないが、明治30年代後半頃より、森琴石は発熱※を繰り返すなど、健康を損ねはじめている。当時、銅版に携わった者は大概早世したという。森琴石が78歳まで生きた事は、異例の長寿でもあった。
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※森琴石が出した書簡には「具合が悪く、画を作るのが遅れた」という内容のものが多く見られる⇒書簡:石癖栗田先生 |
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