森琴石(もりきんせき)1843~1921

森琴石 資料紹介


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「森琴石:下書き帳」より

■森琴石の下書き帳については What's New「森琴石ひ孫「森 茂」氏より 貴重な多数の資料をご提供!!」で略紹介しています。


伝記・履歴・褒賞

鼎金城の伝記

What's New ー森琴石自筆:師匠「鼎金城」の伝記の下書きに資料の画像を添えて記述しています



明治28年頃

伝記
 下書き帳 3頁半ば〜4頁半ば
森琴石 下書き2
本文枠外の読み
摂州有馬
郡湯山町
有温泉及
炭酸泉

金城住
西成郡
上福(島)村


翻刻文を読み易くしたもの

琴石姓は森 名は熊 字吉夢 又号鉄橋道人
天保十四年葵卯三月十九日生
有馬梶木源治郎の三男なり
幼にして森善作の義子となる 故に姓を冒す
年八歳鼎金城の門に入り画を学ぶ
始め金石と号し後琴石と改む
文久三年金城没す
後広く名家に交わり画法を研究す
清人胡鉄梅 王冶梅 朱印然 黄吟梅 衛鋳生 陳曼寿
の諸氏と交わる
厚詩は妻鹿友樵に学び
著書に南画独学 題画詩集 墨場必携あり
浪華東区伏見町第三百三番邸に住す

翻刻文
琴石姓ハ森名ハ熊字吉夢又号銕橋
道人天保拾四葵卯年三月十九日生有馬梶木
源治郎ノ三男ナリ幼二シテ森善作ノ義
子トナル故二其姓ヲ冒ス年八歳鼎金城
ノ門二入リ畫ヲ学フ始金石ト号シ後琴石
ト改ム文久三年五月金城歿ス後廣ク名
家二交リ畫法ヲ研究ス清人胡銕梅王冶梅
朱印然黄吟梅衛鑄生陳慢壽ノ諸氏ト
交ム厚詩ハ妻鹿友樵二学ビ著二南畫
獨学題畫詩類墨場必携アリ浪華
東区伏見街第三丁目三百三番邸ニ住ス


履歴
下書き帳4頁半ば〜5頁

下書きの翻刻…文字の一部を変換し易いものに変えました

  文久二戊年六月開業
  明治十七年十二月六日大阪府庁ヨリ絵画品評会
    発起尽力乃段奇特ノ旨褒状を賜フ
  明治十八年四月二十五日東洋絵画会総長
    二品能久親王殿下ヨリ同会学術委員嘱任セラル
  明治二十三年私立大阪画学校設立発起ス
  同      年五月八日浪華画学校教員ヲ委嘱セラル
  明治二十三年八月二十日浪華絵画協進会審査委員嘱託セラル
  明治二十五年十二月一日日本美術協会大阪支会絵画部委員二嘱託セラル
  明治二十六年十二月一日日本美術協会大阪支会
     第一回展覧会絵画部審査員ヲ嘱託セラル

注釈
※文久2年6月開業とあるが、文久2年(1862)は森琴石が忍頂寺静村に南画を学び始めた年である。
その前年に鼎金城が勃している。

※二品(にほん)
品位(ほんい)とは奈良時代から江戸時代にかけて日本の律令制において定められていた親王・内親王の位階のことをいう。
一品から四品まである。(byウィキぺディア・コトバンク)

※能久親王殿下(よしひさ  しんのう殿下)
北白川能久親王の事。北白川宮2代目で、伏見宮邦家親王の第9王子で、嘉言親王の弟宮、智成親王の兄宮に当たる。
1847年4月1日(弘化4年2月16日) - 1895年(明治28年)10月28日は、幕末・明治時代の日本の皇族、陸軍軍人。(byウィキぺディア)

★what's new[2015年5月12日更新分] をご覧ください。

褒賞

下書き帳 6頁~7頁



下書き帳 8頁~9頁


 
翻刻文  

原文の数字、旧漢字、片仮名、<贈ラル→贈られる>と、全て現代文に換えました

  明治十五年十一月十三日 内国絵画共進会出品シ褒状ヲ賜フ
  明治十七年十一月二十日  大阪絵画品評会二出品シ三等賞ヲ贈ラル
  明治十八年五月二十八日   奈良博覧会二出品シ褒状ヲ贈ラル
  同年  十月八日 愛知県絵画共進会二出品シ褒状トシテ白銅章ヲ贈ラル
  明治十九年四月十八日 東洋絵画共進会二出品シ褒賞トシテ銀章ヲ贈ラル
  明治十九年五月二十八日 石川県絵画品評会二出品シ褒賞トシテ磁印ヲ贈ラル
  明治二十二年五月五日 日本美術協会展覧会二出品シ褒状ヲ贈ラル
  明治二十三年七月十一日  第3回内国勧業博覧会二出品シ褒状ヲ賜フ
  明治二十三年九月十五日 浪華絵画共進会二出品シ褒賞トシテ白銅章ヲ贈ラル
  明治二十三年十一月十七日 日本美術協会展覧会二出品シ褒賞トシテ銅牌ヲ贈ラル
  明治二十六年二月二十九日   日本美術協会大阪支会美術展覧会二出品シ褒賞トシテ銅牌ヲ贈ラル
  明治二十七年十月二十八日 日本美術協会展覧会二出品シ褒賞トシテ銅牌ヲ贈ラル
  明治二十八年二月八日 広島大本営絵画ヘ絵画貮帳差出 (月瀬図・春老図)
      天覧二供シ奉リタル叡慮適申陸軍中将
      岡澤精殿ヨリ伝献 宮内大臣土方久光殿
      ヨリ書付被降
  明治二十八年六月八日 京都府博覧会二出品シ褒賞トシテ雅致銅牌ヲ贈ラル  
               一 青緑山水図 壱、第二部第
               一 淡彩松渓弾琴図 壱 一類
    右者第四回内国勧業博覧会ヘ出品致シ候処
    同会閉会相成候付該品引取貴殿委任致候付
    同会へ御出願御引取可被下候 以上
        大阪府出張所

★解読の一部を、大島千鶴氏(倉敷市総務課歴史整備室)にご協力頂きました。


注釈
※赤色文字=これまでに取得した資料には出なかった<絵画展覧会の名称
 
※奈良博覧会=明治7年(1874)に官民合同による奈良博覧会社が設立され、
東大寺大仏殿廻廊を会場として、 正倉院宝物をはじめ貴重な寺宝類が陳列された。
この博覧会は明治23年(1890)まで続けられた。(by  美術館・博物館情報
奈良国立博物館)HP)
 
 ※岡澤精(おかざわ くわし)=(1844年8月20日〜1908年12月12日)明治天皇の初代侍従武官長
  萩藩士の子。尊王攘夷運動に加わり、戊辰戦争に従軍。明治4年(1871)陸軍に編入、中尉となる。
  西南戦争には別働第1旅団参謀長として出征。
  近衛参謀長、陸軍次官兼軍務局長を経て、日清戦争時には大本営軍事内局長として天皇の側近となる。29年初代の侍従武官長となり、天皇の信任を得、41年に病死するまでその地位にあった。37年大将。40年子爵。(by国立国会図書館 近代日本人の肖像)
   
 ※土方久光(ひじかた ひさみつ)=(1833-1918)
  土佐出身。土佐勤皇党には初期より参画。武市半平太の親友で上士でもある。
(by taka501001のブログ)
天誅組の砲一番組長楠目清馬は同郷の同士 (by奈良・桜井の歴史と社会)。
維新後栄進し、宮内大臣・伯爵などとなる。

what's new「2015年5月28日更新分」をご覧ください。

   


明治33年

伝記



『日本現今人名辞典』・・・・森琴石略伝の下書き



 what's newで取り上げます      今回分(『日本現今人名辞典』の原稿と添え書き)

   



同じく「森琴畧傳」の下書き



翻刻文


森 琴石 略伝

琴石姓ハ森名熊字吉夢又鐡橋ト号ス
天保拾四葵卯年三月十九日生ス
幼ヨリ画ヲ好ミ遊戯ヲ為ス
一意筆硯ヲ以テ無上ノ楽トス
年八歳鼎金城ノ門二入リ画ヲ学フ
金城歿ス後忍頂寺梅谷二画法ヲ研究シ
読書詩文ヲ妻鹿友樵二学フ
明治十五年以来繪画協進會等ニテ褒賞銀銅章牌ヲ受クル数拾度
又宮内省御用品等屡々アリ
琴石漫遊ヲ好ミ壮年ノ時ヨリ諸国ノ奇景ヲ探リ奇絶ノ景二遇ハ写生シ
所蔵粉本数冊アリ
清人胡公壽書ヲ贈リ詩書画三絶ト称ス
現二日本美術協会第一部ノ委員ナリ
著二南画独学 題画詩類 墨場必携
現二大阪市北区北野二千四百三十四番邸二住ス

右者 明治三十三年二月五日 日本現今人名辞書、差出ス
   右東京出版ナリ


★文字読みの一部を大島千鶴氏(倉敷市総務課歴史整備室)にご協力頂きました。

★上2点の下書きは「下書き帳」に挟んであったものです。



『日本現今人名辞典』の本文 (日本現今人名辞典発行書編刊・明治33年)


もり きんせき  森 琴石


君は大阪の画工なり天保十四年三月十九日生る
攝津有馬湯元梶木源治郎の三男にして大阪の人森善作の養子となる
名は字は吉夢琴石は其号なり又鐵橋道人と号す
幼より画を好み一意筆硯を以て無上の楽とす
年八歳大阪人鼎金城の門に入りて学び始て金石と号し後ち琴石と改む
金城歿後忍頂寺梅谷に就きて研究し読書詩文を妻鹿友樵に学ぶ
明治十五年以来以来絵画共進会等に於て褒賞銀銅章牌等を受くる数十度
又屢々宮内省御用画を命せらる
殊に漫遊を好み壮年の時より諸国の奇景を探り奇絶の勝に逢は必ず写生す
淸人胡公寿画を賜り詩書画三絶と称す
現に日本美術協会第一部委員たり
其著に南画独学 題画詩類、墨場必携等あり(大阪市北区北野二四三四)



★読みやすくする為、下書き及び伝記本文の旧漢字は当用漢字に置き換えました。
(氏名の一部は旧漢字のところもあります)


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