文献抜粋(森琴石について書かれた文献資料をご紹介します) ―南画編― |
1:【大阪現代人名辭書】(大正2年/文明社編/文明社発行) より
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2:【絵画叢誌 第三一四巻】(大正2年8月/) より★関連資料「絵画叢誌 記事」で紹介しています |
3:【大正人名辞典】(大正3年10月/東洋新報社蔵版) より
●資料ご提供者=大塚融氏(大阪府吹田市・元NHK記者・数寄者研究家・経営史研究家) What's New でご紹介 ☞ https://blog.morikinseki.com/?p=3761 |
5:【御大典紀念 日本ダイレクトりー】より阪本筑峰編輯蒹発行/甲寅通信社発行/大正5年5月25日
画家 森 琴石君
帝国有数の大家を以て称せられ、霊妙の技極致に達し関西丹青界の第一の称あるは君なり、
攝津の人、梶木源次郎氏の男にして 天保14年3月を以て有馬湯山町に生る、 名は熊、字吉夢、號を琴石といふ、別に鐵橋道人の號あり、 稍長して森家の姓を襲ふ、幼にして絵画を好み、 嘉永3年8月父に請ふて大阪に出て時の大家鼎金城翁に師事して画法を学ひ、 文久元年師の歿するや轉して忍頂寺静村の門を叩き専ら南宗派の描法を修む、 元治2年大阪の儒家妻鹿友樵、高木退蔵等に就て漢籍詩文を学ひ造詣する所あり、
明治6年東京の洋画家高橋由一氏に師事して 西洋画の妙趣を研究し
以て東西画法の長短を究め、技漸く進むるに及ひ、筆硯を載せて東西に遊ひ、 中国、九州、北陸、東海等各地勝区を探討して、跋渉に年を重ね 上下名士に訂交して、詩酒徴逐の遊を縦にし、旦さに技を研きて帰る、 是れより技大に進み入神の妙あり、明治16年全国絵画品評会を発起し、
学画会、點晴会、扶桑絵画会、日本南画会等を設立して斯道の向上を図り、 翌17年秋全国絵画品評会を大阪に開く、 明治23年浪華画学校※を起して自ら教鞭を執り、同年9月宮内省より御用画の命を拜す、
明治28年明治大帝広島に御駐輦の砌利山水の画2幅を献納し、明治33年5月今上陛下 御慶事の際奉祝画を献上して御嘉納の栄を重ね、明治36年12月美術界の功労者として 賞勲局より銀杯1個下賜せられ、明治41年日英博覧会に『松林山水』を出品して 欧州人の眼を驚かし有名なる英国美術雑誌スタジオに賛辞を掲載せられる、 日本美術協会第1部委員、其の他顧問審査員等の嘱託を受くること数次、又其作品にして
宮内省御用品となること数回、博覧会、共進會、展覧会等に作品を出陳して、金銀銅牌 銀盃木杯等を賞與さるる数十回に及ひ、名声四海に振ふ、大正2年8月第7回文部省美術 展覧会審査員に挙げられ、現に其職に在り 公正其審査に力むると共に、躬ら模範的作品を出陳して 当代丹青界の精華を示し、現時 帝国絵画協会、日本美術会、大阪絵画会委員、南宗画会顧問、日本絵画会評議員として 斯界の発達に貢献しつつあり、 資性寛宏にして平正、人と交わりて毫も城府を設けず(うちとけて分け隔てなく付き合う事)、酒々落々として自ら恬?(てんき=安らかで楽しい事)を好むの風度を示せり、 (大阪市北区北野高垣町2434)
注:原文の行移動を少し変えています。
※浪華画学校は明治17年7月13日に開校。
※言葉の意味
城府を設けず=打ち解けて分けへだてなく付き合う事 酒々落々(しゃしゃらくらく)=こだわりがなくさっぱりしている事 恬?(てんき)=安らかで楽しい事 注:what's New平成24年10月10日更新の「お知らせ&補足」をご覧下さい
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6:「京阪神における事業及人物」 より |
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