文献抜粋(森琴石について書かれた文献資料をご紹介します) ―南画編― |
1:【森琴石翁遺墨帖 乾坤(もりきんせきおう いぼくちょう けんこん)】より
(一) 叙 ◆藤澤黄坡(ふじさわ こうは) については、「関係人物紹介:藤沢黄坡」 をご覧ください 。 森琴石先生
今予ねて録せし先生小伝、先生におゆるし願い、不文を顧みず其略を叙す。 元治二年、妻鹿友樵、高木退蔵に就き漢籍を修む。明治六年東京に遊び、西洋画家高橋由一の門を叩き、東西画法の長短を考へ、明治十年西南役後、清国墨客名手の来舶に会ふや率先して交はり以て浙派(南宋画派)の薀奥を極め、苦心の末遂に一格を樹つるに至る。後筆を持って諸国を漫遊し、景勝に触るれば画彙に収め其技益々熟せり。明治十六年全国絵画品評会を発起し、後更に学画会、点晴会を設立し更に絵画協会、日本南宗画会等を設立又博覧会、展覧会審査員顧問等の嘱託等を受く。 数次其作画は宮内省御用を御受けせし為め明治三十六年内閣賞勳局より銀盃下附さるる。 著書に南画独学、題画詩集、墨場必携あり。 先生偶ゝ(たまたま)病に罹り大正十年三月二十四日遂に起られず、享年七十九有九.其病褥にあるといへども筆硯措くを肖(かえ)んぜず絹紙に対し画想を凝らし、苦中の快の為め忌(や)めず。 其の天賦の努め実に驚くに足る。これ老懶(ろうらい)なる者の泰斗とならん宜(む)べなるかな。 此帖其の壮年時より歿年時に至る細次の便に序し以て画状変遷の跡を明らかにするものなり 昭和二年二月上旬萬象堂南窓下に於て書す 門人 翠石近藤赤彦識(しる)す ◆漢文の解釈は、「森琴石画集」(森寿太編、野村廣太郎発行・昭和49年・非売品)による。 |
2:【「真偽評価 書画鑑定指針 近代南宋諸系」 】より
―森琴石 伝― 本姓は梶木、父を源三郎(注:正しくは源次郎)といひ、琴石はその三男。 天保十四年三月十九日、摂津有馬郡湯本に生れ、幼にして旧大阪町役人森善作(注:正しくは森善蔵※)の養子となり其の姓を冒した。 琴石名は熊、字は吉夢、通称を琴石といひ、叉之を號となし、別號を鐵橋、畫屋を聽香讀畫庵と称した。 幼より畫を好み、八歳の時(注:正しくは数え6歳)早くも鼎金城に就いて南宋画を學び、金城の歿後は更に忍頂寺静村に師事して益々南画を研究し、叉西洋画を高橋由一に學び、傍ら漢学を高木退蔵、妻鹿友樵に就いて修めた。 性漫遊を好み名山大川を跋渉しては、寫しては、家に蔵した、而して天才的技能に加ふに多年の修養を以てし入神の妙を極め、清人胡公寿は曾て書を寄せて詩書画三絶と称した程画名大いに振ふに至った。 維新の際顧みられなかった画運の漸く勃興するに及び、琴石は斯道の発達に盡瘁して寧日なく、獨力展覧会を開き、建言書を出し、或いは審査員となり諤々の議を闘して向上に努め、叉明治十七年には大阪に画学校を興した事があった、其斯界に盡した功に依り明治三十九年賞勲局より御紋章入銀盃を下賜せられた。 又日本美術画会委員、東京南宋画会顧問、日本画会評議員、大阪南宋画会顧問、大阪絵画会委員等に挙げられ、大正二年八月には文部省美術審査員に任じられ、同年帝室技芸員に列せられて関西南画界の巨擘を以て唱へられた。 其の画は山水を最も得意とし、各地展覧会、博覧会に出品して金銀銅牌を受領すること数十回に及び、就中明治四十二年日英博覧会に出品した「松溪幽穏」の図が会心の作にして世評高かった、叉御用画の恩命に浴した事も度々であった、著書に南画獨學、題画詩集、墨場必携等がある。 琴石は性謙譲、居室には常に先師の筆を掲げて居ったといふ、その趣味詩文に長ずるは勿論、七弦琴を能くし技神に入るといふ、大正十年二月二十四日、七十九歳の高齢を以て、大阪北区高垣町の居に歿した。 |
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