森琴石(もりきんせき)1843~1921

森琴石 調査情報

平成10年10月~現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成16年(4月)

森琴石と同居していた、孫の「森 加津 もり かつ」が、婚姻時 注1に持参した雛道具類は、森琴石自筆の備忘録類で包まれていた。「日記」・「自画や、他の画家の箱書や鑑定の覚書き」など、数種類のものが残る。いずれも、琴石が記録したもののごく一部である。 その中の一つに、清国文人との「筆談 注2」がある。筆談は、当時来舶した中国文人との「会話や意思の疎通 」が出来る唯一の手段であった。森琴石は、南画の発祥地である中国文化に対し、尊敬と憧れの念を強く持ち 注3、清国の文人墨客が来るという「情報」を、先輩や同輩よりいち早く得るや、大阪や神戸港に来舶するのを待ち受け、自宅に招くなど 注4、積極的に詩書画などの指導を仰いだ。清国文人の書画帖は、「浪華画学校・支那画の教師 注5」となった時の「教材」として使用された。自身の勉強のみならず、彼らを地方の文人、名家・旧家などの趣味人に紹介した 注6。  森琴石への揮毫作品や 注7、森琴石の画帖、画譜、響泉堂刻の書誌類には、多数の清国文人達が「序文・題字・跋文」などに揮毫している。それらは、清国文人達の足跡を知る、手がかりになる。また「煎茶会の図録」からも、交流や足跡を知ることが出来る。 「王 冶梅 おう やばい 注8」・「陳鴻誥 ちん こうこう 注9」(陳曼寿)らが、日本で編さんした「画譜」や、「漢詩集」からも、多くの足跡や交流関係を知る事ができる。交流した日本の漢詩家による「漢詩集」には、それら清国文人達の名が多く出ている。

   
注1 森 加津=琴石歿3年後の、大正13年1月、奈良県の西籐氏(銀行勤務)と結婚する。加津は明治37年6月、森琴石長女「昇 しょう」の次女として生まれるが、明治44年1月、森琴石長男「雄二」の養女となり森家に迎え入れられた。以後「雄二」の結婚や再婚後も、森琴石と同居した。 →最新情報 平成11年10月 をご覧ください。
   
注2   筆談は 7、8枚の半紙にびっしりと書かれたもの。神戸清国理事・藤澤南岳や竹香(小原)・近藤南洲等の名、琴石門弟名(北島華谷・大阪府吹田出身)・画家名(中西・小山など)、地方の風流雅人を紹介する旨などが書かれている。
   
注3   森琴石は中国、明(みん)の画家「沈 周  しん しゅう」(号沈 石田  しん せきでん)」を特に敬愛した。琴石の摸写 画には「沈 周」のものが多い。遺品の箱書・模写画の端などには「沈周の画風を好んで描いた」と、その旨を記している。 ※沈周=字(あざな)は啓南、号は石田。中国、明の画家(1427~1509)。元末四大家の文人画を学んで、山水・花鳥画をよくし、文人画隆盛の糸口を作った。詩書にもすぐれる。
   
注4   祖国から逃れるようにしていた「胡鉄梅  こてつばい」などを、大阪市東区(南本町~高麗橋~伏見町へと住居変遷)の自宅に、長期逗留させていたという。
「関連資料」 「翰墨因縁」を ご参照ください。
   
注5   浪華画学校=樋口三郎兵衛が大阪道修町に自宅を開放して設立したもの。日本で2番目画学校。琴石は守住貫魚、狩野永祥、上田耕沖、森閑山など各派講師陣と共に参加、水原梅屋と共に支那画教員に招かれた。「浪華画学校」は、画期的な先見性をもって開設されたが、惜しくも明治25年には閉校となった。 ※日本での最初の画学校は明治13年田能村直入らが主催した「京都府画学校(現京都芸術大学」、第三番目は、明治20年10月、国立の「東京美術学校」(現東京芸術大学)が開設された。
   
注6   関係人物紹介「池田正信」、関連資料「中野雪江」をご覧ください。
   
注7   森家には、森琴石が収拾した殆どが、琴石歿後と戦災を機に散逸した。明治8年位 の寄合画巻「王倪」の巻頭書・小屏風に「汪雲」の書。「胡公寿」の「石図(書画大横額・明治13年7月)などが残る。
   
注8
王冶梅(おう やばい)=明治15年9月「蘭竹二譜 二冊」、同年11月「冶梅画譜・人物冊 二冊」、同年同月「冶梅蘭竹譜 二冊」の著書がある。出版は大阪の吉岡平助、岐阜県士族「加島信成」。
     
陳鴻誥(ちん こうこう ・陳曼寿・乃亭翁)=漢詩集「日本同人詩選4冊」(土屋弘出版 ・明治16年)を編纂し、巻三には琴石の詩一首入れられている。
土屋弘=大阪岸和田生れ、号鳳洲。堺県学校教師や師範学校長を兼任し、漢学者としても著名。



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