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明治後期から、森琴石が死去する大正10年にかけて、森琴石門下では、森琴石の若年時からの”老いた弟子”のみならず、若手の門弟までが次々と病気で亡くなった。そのような時期、明治42年、島根県の片田舎から、はるばる大阪まで学びにきた前途有望な画家志望がいた。師範学校を出、教鞭まで執った「嘉本周石」という、素直で飾り気の無い若干20歳(はたち)の青年である。
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森琴石一門では、船場の旦那衆などが、趣味として画を嗜む者以外は、森琴石の画の指導は半端ではなかったと思われる。南画の技法やジャンルは勿論の事、四書五経など、画賛や絵画の鑑賞に必要な教養を身につけさせた。森琴石の門下は、レベルの高い教養を身につけた人物が多かったようだ。
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しかし、時代の潮流は、南画は新南画へと、画風が変わり、旧来の、南画の本場中国から伝わった文人画の手法や教養、その精神性を大事にしたいとする一派は”旧派”と呼ばれ、”古臭いもの”と捉えられた。一方、新南画では、線を描かない”朦朧体”という手法がもてはやされた。むしろそのような画風でないと売れにくく、生活の糧としての十分な画料が得られなかったのだ。読解が難しい画賛も不要で、一般人に解り易い絵画は急速に広まっていった。
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嘉本周石が入門した時期、美術会では旧派や新派の分裂がたびたび繰り返されていた。「嘉本周石」は、森琴石指導のもと、着々と実力を蓄えていた。大正2年、嘉本周石25歳の時、師匠の森琴石は「第2回文部省展覧会(文展)」の審査員に推挙された。「平成19年2月【1】■6番目&注8」でご紹介していますが、森琴石は苦悩の裡に審査員を引き受けた。
この年を最後に、翌大正3年から「南画正派」を自任する一派は、今後大きな「冠展」や「官展」には一切出品しないと取り決めをした。これら美術界の一連の分裂の経緯は、「美術五十年史 注1」(森口多里著/鱒書房/昭和18年6月刊)に詳しい記述があり、またインターネットでも紹介されている。森琴石門下では、個々に絵画組織を展開している者以外、森琴石一門の立場としては、その後、殆どの絵画組織には参入しなかったようだ。
大阪の美術界でただ一人文展の審査員となった森琴石は、大阪の他の南画派や日本画流派から
反感を抱かれるようになった。 粛々と自身の画道を邁進したいだけの森琴石は、それら雑音には一切惑わされず、淡々と日々研鑽に励んだ。しかし不愉快な動きが周辺に及んでいた。森琴石の偽物の絵が出回ったり、森琴石を排除しようとの動きがあった。「平成20年2月【2】注3」で、間部霞山が”絵画界の現状をなげく”で書かれている事は現実にあったようだ。森琴石が近藤翠石に宛てた書簡には、「XX記者とのやりとりには慎重を期すように・・・・」と注意を促している 注2。近藤家がこの書簡を、わざわざ表装までして残していたたという事は、その後、何か懸念するような出来事があったのかもしれない。
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このような実情は、嘉本周石ら若手には大きな打撃となる。森琴石門下では、中堅以上は、絵画展での受賞を重ね”認知された画家”として地位を築き、弟子や贔屓筋を持っていたが、「嘉本周石」ら若手新人にとっては”展覧会”という、自身の実力を試す”登竜門”となる道が閉ざされてしまったのである。
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そのような状況下、大正9年秋、嘉本周石は「第2回帝国絵画展覧会(帝展)」に作品2点を出品した。しかもその2点共入選を果たした。周石31歳、森琴石入門12年目の出来事である。しかし、前述の「大きな官展には出品しない」という斯界の約束事を破った事となり、手放しで喜ぶ分けにはいかなかった。
大正9年といえば、「森加津の日誌」では、森琴石は、5月以来危篤状態を繰り返していた。前年の10月には、森琴石の長女「昇」が他界していた。愛娘の先立ちは、森琴石にとって”耐えがたい不幸”であった。そのような状況下、森琴石の周辺では、この”嘉本周石の入選”をどのように受け止めたのであろうか?
偉業をなしたとは言え、嘉本周石は、森琴石門下では先輩たちの画力には遥か及ばなかっただろう。南画の画法の中には「朦朧体」のような描き方がある。画法を積み重ねた者ならば、それほど難しい描き方ではない。兄弟子など周辺の者は、森琴石の心情や病状を懸念し、或いは森琴石自身が、門下の兄弟子達を気遣い周石を叱責した可能性がある。その4ヶ月後の2月24日、森琴石は78歳の生涯を閉じた。
注1
森口多里著「美術五十年史」=森琴石の記述ヵ所が10か所ある。
注2
森琴石⇒近藤翠石宛書簡
右から3行目下、※庭山耕園の名あり
◆書簡ご提供者=近藤成一氏(東大阪市・近藤翠石孫)
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