森琴石(もりきんせき)1843~1921

森琴石 関連資料

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た項

「田川春荘画の「孔子像」と地域社会」

文:大国正美「地域研究 いたみ 28号」(伊丹市立博物館・平成11年3月・)より

●関連事項=最新情報「平成16年9月」・「平成16年11月」・門人紹介「田川春荘


画人・春荘

 一九九七年秋に、伊丹市立博物館で開催した「ふるさとの教育史・」の展示で、春荘筆「孔子子弟薫陶図」(本誌巻頭写真参照 *当HPでは掲載出来ない)という書画が、玄関の展示ケースに飾られた。左下には「辛亥夏日写於養清山房応有志高嘱、贈稲野村立小学校 春荘」と書かれていて、春荘が明治四十四年(1911)に有志の依頼をうけて作成し、稲野小学校に寄贈した経緯が分かる。 「稲野尋常小学校沿革史」の明治四十四年十一月十三日の条には、「新田中野村山田柳太郎・安倉村(現宝塚市)田川善近・阪上兵三氏ヨリ教育修身孔子子弟薫陶図壱副ヲ寄贈シ来レリ」とあって、その記載が裏付けられるばかりか、「教育修身」のために寄贈されたことが分かる。

作者の春荘は、寄贈者の名前に見える田川善近その人であり、「川辺郡誌」によると、別号を養清山房といい、安政三年(1856)の生まれで、「浪華南画の泰斗森琴石翁門下の耆宿たり」とある。盛んに書画を作成し、作品はまとめて地元の住吉神社に奉納されたと伝えられるが現存しない。また小浜・安倉地域などの旧家に襖絵などが発見される。また西宮門戸の旧家でみつかった春荘画「須磨八景」は、一昨年七月に開かれた伊丹市立博物館の「資料でわかる歴史とくらし」展で公開されている。また最近、伊丹市昆陽居住の河野輝洋さん方に、襖絵を屏風に仕立てた春荘画の「立花図」(仮称)が保存されていることが分かった。ただ河野さん方は明治初期から大正期まで岐阜県・赤坂町で河野大雅(初代忠治=明治三十七年没・七九歳、二代忠兵衛=大正元年没・六一歳)の号を使い、温故焼きの窯元をされていた。昭和初期に彦根に移り、このどちらかで入手されていた。春荘の画の流布を考える上で興味深いデータである。

春荘の師・森琴石は、有馬温泉の中の坊の一族・梶木源次郎の子として天保十四年(1843)に生まれた。九歳で大坂・森家の養子となり、南画を鼎金城・忍頂寺静村から学び、三一歳の時東京に出て、西洋画・銅版画を学んだ。名所図や地図作成などにかかわるが、明治二十年代からは南画に専念し、関西南画を代表する画家となった。

田川善近は、明治から大正前期の川辺郡の地方行政にとって重要な人物である。「川辺郡誌」によると、一七才で安倉村役場用掛となり、明治十四年戸長となった。「川辺郡誌」はこの時二七歳とするが、数え齢二六歳である。一方、明治一七年八月に開かれた小浜村会、九月の安場村会、同月の米谷村会では、用掛として病気欠席の戸長和田源五郎に代わって議長を務めている。(「小浜村誌稿」「宝塚市史」第六巻所収)。安倉村ばかりか、周囲の村の村政でも行政官として中核的な役割を発揮しているのである。

 そして明治二十二年四月の町村制施行で小浜・安倉・米谷・川面・見佐村が合併して出来た際に選挙掛長を務めたうえ、一二人の小浜村会議員の一人に選ばれた。さらに五月の初村会の選挙で村長に当選。以降、大正二年(1913)まで六期の長きにわたって村長を務めた。在任中、明治二十六年に阪鶴鉄道会社が設立された時、田川は発起人と株主としても名を連ねた(「鉄道院文書」)。また「川辺郡誌」によると「特筆すべきは日清の役、身は郡の町村長総代として大本営に天機を奉伺し、復日露の役、募債の功は墜に勲七等に叙せらる」としている。

 さて三人が稲野尋常小学校に「孔子子弟薫陶図」を贈った理由は定かではないが、新田中野の中野小学校は明治四十一年に稲野小学校の分教場になったことが背景にあり、分教場校区の地域社会と本校の関係を反映しているのだろう。 伊丹の近代教育が、地域社会とどう絡んで展開したのかを探り、地域の名望家が学校の思想教育に深くかかわっていることを明らかにする重要な資料である。一方で、あらためて儒教が近代教育に及ぼした影響の大きさを思う。


◆大国正美氏=伊丹資料修史等専門委員長・神戸深江生活文化史料館副館長
◆阪鶴鉄道(はんかく鉄道)=最新情報「平成15年7月」記載の「田 艇吉(でん ていきち)」をご参照ください。                     田 艇吉は近藤翠石から画を学んだ(最新情報「平成16年10月」にも記載)
◆田川春荘の生没年:安政3年8月15日~大正11年8月13日


と項

「砥部焼きと森琴石・胡鉄梅」

●関連事項=「平成16年11月・12月
●資料及び情報ご提供者=山本典男氏( 砥部焼研究家・エヒメセラム株式会社社長 )


(一)
砥部焼き年表(近代)より

「砥部焼き資料 第一集」
(資料提供者山本典男・砥部焼き伝統産業会館編集発行・平成9年)


明治18年(1885)
清国画家胡鉄梅、砥部にて絵付けをする。
明治19年(1886)
向井和平、城戸徳蔵と計って長崎商人小村徳平を通 じて清国安東県に初めて砥部焼きを輸出。
明治22年(1889)
大阪の南画家森琴石愛山窯に滞在焼物に絵付けをする(煎茶器、手炙りなど)富岡鉄斎、砥部に来る。(明治11年に鉄斎の妻春子の実家佐々木家が砥部に移り住んだでいた)
明治26年(1893)
城戸徳蔵、向井和平 美濃国より板津鉄治、船澤民九郎の両人を雇い銅版染付け法を伝える
明治36年(1903)
向井和平大阪南区心斎橋二丁目(えびす橋北詰)に支店を出す
明治41年(1908)
陶画師酒井八四郎、多治見の西浦製陶所より下向井窯に来る

(二)
陶説  第63号」(昭和33年6月・社団法人 日本陶磁協会発行)より

9頁 :文章
太田和堂【砥部焼】
18頁:第三図写真
明治19年10月、砥部焼き「愛山窯」で染め付けした「森琴石の煎茶器」が使用されている
22頁:写真解説
煎茶器 「蘭」の絵付けに添えた文字
 「露滴蒼玉 丙午晩冬寫於南豫砥部 愛山楼上 琴石」
蓋表:「碧雲館清玩 愛山製之」

  茶器や手あぶりは、染付けとあるから「呉須」で描かれたもの

(三)
山本典男氏調査資料メモより

【森琴石】
1:井部コレクションが久万美術館に収蔵される前、整理の段階で森琴石煎茶器があった。

2:明治19年 「愛山窯」で、手あぶりを染付けする -染付蘭絵(寒鳳蘭)-

手あぶり落款:「丙戊初冬  作於南海  豫山砥部  愛山堂中   琴石」
手あぶり寸法:高さ16cm 直系16cm
木箱の裏   :「明治卅弐年十二月(購入日と思われる)」
木箱の横   :「愛山窯製 森琴石画 手阿婦里(てあぶり)」

【胡鉄梅】

明治20年:道後に来る、旅館に滞在し墨絵を描く=海南新聞記事


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