森琴石(もりきんせき)1843~1921

森琴石 調査情報

平成10年10月~現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成15年

平成15年12月

森琴石秘蔵の小画帖、表紙裏の紙を剥して書かれた隠れた紙面には、「中西耕石」・「山中信天翁」・「村田香谷」・「天野方壺」・「浅井柳塘」・「池田雲樵」・「宮原易安」・「久保田米僊」らが実名で、また京都の住所が書かれている。これら人物は、森琴石の控帳や森琴石著書への揮毫者としてたびたび名が出る。また同画帖には清国文人「金寿門」・「胡公寿」・「張子祥」・「倪旭華」・「楊伯潤」などの名での画、「写於申浦(上海)等の文字、明治11年の年記、森琴石の押印がある。詳細は不明。

大阪近代美術史研究会(原田平作・村越英明 両氏代表)12月度の研究会は四天王寺が会場。会の終了後、メンバーの方々により森琴石が眠る同寺の墓碑をお参り頂く。

森琴石墓参は、四天王寺宝物館で開催された「四天王寺と菅盾彦・生田花朝」展での見学の一環。

下記11月度記述にある、淡路島・津名町志筑(しづき)の忍頂寺家の菩提寺「引攝寺 いんじょうじ」、その本山「東山寺 とうさんじ」及び忍頂寺静村の墓碑がある大阪市浪速区、「鉄眼寺 てつげんじ」を訪問する。忍頂寺静村の画や、忍頂寺家代々に伝わる立派な石碑を拝見し、各所で有意義な歓談のひと時を過ごす。

平成15年11月

森琴石の南画の師、「忍頂寺静村 にんちょうじ せいそん 注1」は、兵庫県津名郡志筑(淡路島・しづき)の生れ。代々組頭庄屋を務める大庄屋忍頂寺家の別家、「忍頂寺七左衛門」の長男。家業は酒造業を営む。忍頂寺家分家のご子孫、横浜市の小野恵嗣氏、仙台市の忍頂寺晃嗣氏とご連絡がつく。両氏の祖父忍頂寺務氏は、清元など江戸小唄の研究家として著名。同氏による大収集資料は、「忍頂寺文庫」の名で、大阪大学附属図書館に保管されている。また「小野文庫」も、同氏収集のもの。務氏は、自号を「静村」と名付けた 注2。務氏の祖父で、庄屋職の「忍頂寺聴松 注3」は、忍頂寺家の菩提寺「引摂寺 いんじょうじ」の本山、「東山寺 とうさんじ」で行われていた、淡路島での勤皇活動を支えていた 注4 。「忍頂寺静村」と「忍頂寺聴松」は、共に「篠崎小竹」の門人 注5であり 、「遠山雲如 とおやま うんにょ 注6」という、共通する交友詩人がいる事などから、両者は同じ文化圏にいたと考えられる。忍頂寺静村の石碑は、大阪市浪速区の瑞龍寺(鉄眼寺てつげんじ)にある 注7

注1  忍頂寺静村(梅谷)については、「関係人物紹介 忍頂寺静村」をご覧ください。
注2  忍頂寺静村と忍頂寺務氏との関係は、詳細不明。
   
注3  忍頂寺聴松(にんちょうじ ききまつ)
  名広業・字士崇・のち庄屋「任三郎」を継ぐ。漢詩家。20歳過ぎ頃「篠崎小竹」に入門し、嘉永3年頃、従兄弟の「伊藤聴秋」と共に京都に出、「梁川星厳」の門下で詩を学び、同世代の「頼三樹三郎」「藤井竹外」らと親交した。

 
注4    
淡路島には高い学問を身に付け、時勢に明るい豪農富商・庄屋達がおり、阿波藩主「蜂須賀公」は、将軍「徳川家」の第二十二子「斉裕」をご養子に迎えていた。それらの諸事情が、文人や勤皇の志士達が寄り集まりやすい場ともなっていた 。安政4年前後、忍頂寺家の菩提寺「引摂寺 いんじょうじ」の本山「東山寺 とうさんじ」では、当時の庄屋、「忍頂寺聴松」の世話で、詩会に名を借り会合を開き、尊王攘夷から倒幕が議論されていた。
  淡路島の志士達には伊藤聴秋・古東領左衛門・武田万太夫・増井文太・田村平一郎・松本奎堂・三田昂馬・高津例太郎・富永包方・藤木蕉陰 ほか。
  淡路島に来た文人志士名は、頼三陽・浦上春琴・篠崎三島・篠崎小竹・猪飼敬所・梁川星厳と紅蘭夫妻・頼三樹三郎※・藤本鉄石・村山半牧・藤井竹外・森田節斎・岡本黄石・日柳燕石・大国隆正・大隈言道・西郷吉之助・桂小五郎 ほか。

 津名郡で、忍頂寺家と同様の役割をした、塩田(塩尾浦 しおびうら)の田村家及 び、菩提寺の普門寺などについては省略する。

頼三樹三郎に関する森琴石の資料
1: 森琴石の、「扇面山水図(下絵)」に添えられた七言絶句は、頼樹(頼三樹三郎)のもの。
2: 明治14年刊、頼三陽著・頼又二郎、標註図記者兼出版「標註日本外史・附図 13冊」の第13冊目の地図58頁分は、全て響泉堂刻である。
書誌情報ご提供=森 登氏(中央公論美術出版)

注5   「麗沢簿」(多治比郁夫校「篠崎小竹門人帖」、「大阪府立図書館紀要」第4号)には「静村:天保3年(1832)」、「聴松:弘化3年(1846)」の項に名が出ている。
下記文献「語文」による
 
注6   遠山雲如(とおやま うんにょ)=名は澹。江戸の人。梁川星巌に師事。 「雲如山人第四集」の中にある詩は、「忍頂寺梅谷(静村)」の画に 遠山雲如が作詩したもの。(雲如が忍頂寺聴松を訪問した際の作詩) ※下記文献「語文」による
 
注7   石碑の碑文は小原竹香撰・村田海石書による。※下記文献「語文」による
 
◆ 文献 ●1: 「津名町史」(津名郡津名町教育委員会編・昭和63年刊) 
●2: 「東山寺」(濱岡きみ子著・昭和49年刊)
資料ご提供者=津名町教育委員会
●3: 「語文 第七十輯・特集忍頂寺文庫特輯」
「三、忍頂寺と文庫点描」(責任編集:福田安典・大阪大学国語国文学会機関誌・平成10年5月) ※福田安典氏=現愛媛大学教育学部助教授
資料ご提供者=海野圭介氏(大阪大学大学院文学研究科助手)
 

平成15年10月

10月24日から3日間、9月度記述の明治16,7年時での森琴石の旅程の一部をたどり、島根県美保関町及び出雲市を訪れる。

美保関町役場
森琴石のスケッチ帖に描かれた島名や地形の説明や地域の情報を頂く。
福間館
森琴石は明治17年2月、江戸時代より文人墨客や美保神社への参拝客が頻繁に宿泊した老舗旅館「福間館」で、「蘭竹図」(水墨・二曲一隻屏風)を描いた。八代目福間屋治平衛氏健在の頃である。また森琴石が大正4年、当主福間栄次郎氏(九代)ご子息福間専一氏(十代)に宛てた葉書が残り、福間家の揮毫依頼帳には同3年の森琴石への画の依頼記録が残っている。下記9月度記述の美保沖航海を、現当主福間隆氏(十三代)のご厚意により森琴石のスケッチの航路を再現頂いた。スケッチ帖の通 り、地蔵崎、塩汲み浦、鬼歯岩(ライオン岩)出雲赤壁、青島、黒島など壮大な景観が眼前に現われる。明治17年2月の酷寒時、手漕ぎでの当時の航海を想像し往時の琴石の姿と重ねる。
美保神社
水運海運の御祭神として全国各地にあるえびす社(3385社)の総本社である。森琴石のスケッチ帖にある美保沖「沖ノ御前」「地ノ御前」の小島までが美保神社の境内であり、本殿は国の重要文化財に指定されている。宮司様より琴石のスケッチから手掛かりとなるご助言などを頂く。琴石奉納の大絵馬「松竹梅図」は桐板に描かれている。
美保関町雲津
森琴石のスケッチは、美保関のほかもう一つの航海の拠点がこの「雲津」との事。雲津の地形は波穏かな湾を持ち、悪天候の折北前船の避難場所になった土地。また後醍醐天皇が隠岐配流時、天候待ちの為立寄った土地でもある。旧家宅にて森琴石の別 の下絵が「広島の竹原沖」のようだとのご指摘を受ける。旧家は両替商を営み、北前船の持ち主でもあったご当地の有力者である 。
玉湯町布志名
松江藩御用窯として始まった「雲善窯」九代目土屋善四郎氏より、琴石が染付けした茶碗を鑑定頂く(画像ではすでに鑑定済み)。再度念入りな見立てにより、江戸末期松江藩の御用窯として栄えた「雲永窯・永原雲永」の元で焼かれたものとの事。明治17年に全国的な経済不安や種々のトラブルにみまわれ「雲永窯」はその後廃窯となった。雲永窯での黄釉薬による明治17年1月の布志名焼きは貴重な資料となる。
玉作資料館
勝部衛館長より江戸末~明治初期、布志名焼窯元家の資料などのご提示を頂く。
出雲市上島町
森琴石のスケッチ帖には、門弟「嘉本周石」の実家近くまでの道程が描かれている。門弟 「嘉本周石」ご子孫宅では「嘉本周石」の秀作十点余りを拝見する。同家には、 明治17年1月、松江で描かれた「花卉図」(小幅双幅)、「観音図」(製昨年記 なし)等の森琴石の作品があり、琴石を含む門下生等による寄合画帖もある。 同じくご子孫に当たる、土江良治氏所蔵の「青緑松渓幽隠図」は、明治31年の力作である。

明治30年の門弟名簿には「伊藤石僊:出雲市神門東郡今市」がある。


平成15年9月

森琴石ホームページ・作品紹介・画稿「山陰地方のスケッチ」は日本海山陰沖航海中の景観を詳しく記録したもの。明治17年2月22日の日付の横には、航海の案内者と思われる「鷦鷯ささき 義八郎君」の文字が書かれている。島根県八束郡美保関等で、食品会社を手広く経営される、鷦鷯家第十六代「鷦鷯ささき 修一」氏の曽祖父の名前である。森琴石は、前年の明治16年10月に松江で画を、12月は伯耆大山の画を描き(宮内庁三之丸尚蔵館所蔵) 、17年1月八束郡布志名村に滞在し、2月、「甲申如月老蓮筆意於美保関望仙楼上」という落款のある、「天保九如図」を描き、美保神社には、同甲申如月に「松竹梅」の大絵馬を奉納している。(現在は衝立に仕立直されている)

鷦鷯家は貞享3年(1687)第三代鷦鷯三右衛門が酒蔵業から始めたのを創業としている。

美保関港は  古来日本海地方における通商の重要地点であり、松平藩が番所を設け金融機関として為替方を置いた。
最盛期には回船問屋が42軒に上るほど取引が頻繁であった。

鷦鷯家第十二代「謙兵衛恵七」は、明治2年20歳で家督を継ぎ、明治3年4月、大阪の豪商「鴻池善右衛門」を頭取とする「通 商司為替会社為替方兼通商会社頭取並」に任命され、地方商業の発展に寄与する。

明治10年、松平氏から経営を恵七らに移されるが、多額の不良貸付を抱えた恵七は、心労が重なり明治11年5月、失意のうちに29歳で早逝。
他家の養子となっていた実弟「義八郎」が第十三代を継いだ。

義八郎は明治14年4月、美保関に置かれた「広潤社」の為替方を申し付けられ営業を続けたが、明治16年経営危機のため廃業となる。
鷦鷯家は多額の負債を抱え、また美保関経済も衰退していった。

スケッチ帖にある明治17年2月は義八郎苦難の真最中の時期である。

義八郎は堅固な意志と不屈の精神力で、明治26年には債務を清算し終え、一時衰微していた海運も次第に復活、美保関経済も活気を呼び戻し、義八郎は地域の人々から信頼を寄せられたという。

スケッチ帖には「鷦鷯義八郎・舎弟二名・舎弟の妹よし・琴石の妻ヤス・琴石」の、計六名が同航者として記されている。舎弟名の特定は出来ていない。
調査ご協力、情報ご提供者=槙村洋介氏(飯田市美術博物館)
 資料ご提供者=鷦鷯修一氏
 ご協力者:美保神社(八束郡美保関町)
参考文献=「鳥取銀行の歩み」(平成6年・鳥取銀行の歩み編さん委員会)・「本邦銀行変遷史」(平成10年・東京銀行協会調査部 銀行図書館)

平成15年8月

岐阜県土岐市の熊谷康二氏より、森琴石のまとまった作品の所蔵のご連絡を頂く。熊谷家は、江戸末期より庄屋を務めた家柄。七代目当主「吉兵衛」は若くして江戸に出、江戸の「石門心学(せきもん しんがく)」の代表格「参前舎」に学び、「器水 きすい」と号し講舎の中心的人物となる。更には「東洲 とうしゅう」と称し、「八代舎主」に就いた。多治見の大庄屋三代目「西浦圓治 にしうら えんじ」は、文政期以降、江戸と大坂に出店する東濃一の陶磁器の仲買商であった。弘化4年(1847)から、吉兵衛は、その「西浦江戸店」の支配人を努め、心学の経営哲学を商才に発揮した。円治の養子の「源三郎」は明治元年、多治見で「富円舎」を開き東濃での石門心学を広めた(明治18年まで存続)。熊谷家八代目の「弥吉」は、同じく明治元年に「石翁 せきおう」と号し、妻木で石門心学「会友社」を開設する。康二氏は十一代当主「弥吉」の二男に当たる。また「西浦江戸店」の現在は、東京青山の古美術商「西浦緑水堂」である。

石門心学=享保年間、京都(丹波出身)の石田梅岩によって創始され、手島堵庵などの弟子達により心学と称され広められた。儒教や仏教、神道の思想を融合し、平易に教旨を説き、上層農民や商人に大きな影響を与えた庶民学問。 講舎は京都の明倫舎を頂点とし、一時は全国65余か国149個所にまで広まっていった。因みに大阪の心学の代表格は「明誠舎」である。

文献:「岐阜県教育史 通史編古代、中世、近世」より「第三部 近世 第三章 一揆と読み書き、二 心学の発達」=熊谷康二氏ご提供

明治13年、森琴石編著、響泉堂刻「南画独学揮毫自在 なんがどくがく きごうじざい 四冊」の題字、序文、跋分の揮毫者は、当時森琴石が尊敬して交流した人物を如実に知る南画指南書である。20余名(清国文人数名含む多くは儒者)の顔ぶれは「江馬天江」、「小原竹香 注1」「雨森精斎 あめもり せいさい」「草場船山 くさば せんざん」「林雙橋 はやしそうきょう」など多士済々。その中の一人大阪の儒者「日柳政愬 くさなぎ せいそ 注2」は、大阪での教育界の大先駆者であった。

注1 小原竹香(おはら ちっこう)=元津山藩士。勤皇志士。明治維新後京都権判事になるが、嫌疑を受け幽囚される。後明治五年奈良県典事に任命されるが公務を好まず、大阪に移住。詩文に長じ、五畿内中国地方を歩き、門下に教授。古書の収集を趣味とし、文人墨客と清遊した 。
 
注2

日柳政愬=号三舟、黙軒・讃岐出身・明治2年兵部史生から明治5年大阪府大属に転じ、学務を管轄府下に数十の学校を創設した。明治12年大阪師範学校の校長となる。盲唖学校「愛育社」も起こした。又辞官後は「浪華文会」を起こし教材の整備に力を注ぐなどした。明治36年64歳没。

三舟の父、日柳燕石(くさなぎ えんせき)は、讃岐琴平の任侠。詩文にも優れ、維新の折高杉晋作を匿い、桂小五郎(後の木戸孝允)・久坂元端・伊藤俊輔(後の伊藤博文)らとも交流した。

注1,2=「大阪人物辞典」(三善貞司著・清文堂)より


平成15年7月

兵庫県氷上郡柏原(ひかみぐんかいばら)は森琴石とはゆかりのある土地。「安田畊逸(やすだこういつ・号梅荘)」は、明治13年森琴石編纂による、木版「名家画帖」に画を寄せている。畊逸は田中村で「相救舎」の教頭を務める儒者。長男の画家安田鴨坡は、田能村直入主催の「私立南宗画学校」の会計をし、孫の「安田虚心」は現在南画家として活躍中。「名家画帖」は、森琴石が当時交流した文人達の書画を集めた画帖。大阪の文人に加え、清国文人、鐵崖(鉄斎)等京都の文人等30数名によるもの。氷上郡柏原からは、「田艇吉」・三代目「清風与平」などを輩出している。

田艇吉(でん ていきち)=森琴石門弟近藤翠石に最初に画を学ぶ。衆議院議員となり現JR西日本、福知山線の前身である阪鶴鉄道の創設者でもある。元ジャーナリストで参議院議員の田英夫氏は孫に当たる。

清風与平(せいふうよへい)=清水焼窯元。茶器製作では日本で最初の帝室技芸員を拝命した。与平の長女たまは、岡田播陽の妻となる。 大正14年2月、鯖江市の料亭「若竹楼」で開催の「森琴石第五回忌遺墨展」での「浅酌席」で、香炉に「清風与平作青磁」を使用した。

ご協力者=炭野 誠氏(兵庫県氷上郡柏原町)

門弟の氈受楽斉(めんじゅ らくさい・名小八郎・略字で毛受とも書く)のご子孫より、楽斉の写真のご送付を頂く。楽斉は大阪府北河内郡住道村(すみのどうむら)大字尼崎新田 注1 に住み、画業のほか歌人として「松鶴園詩鈔」「松鶴園詠草」「摂河名家集」などの歌集の著発行をした。大正11年50歳で没する。

氈受家については、関連資料「尼の毛受さん」をご覧ください。

注1  尼崎新田の地名は、江戸時代豪商の尼崎屋が新田を開発、尼崎新田と呼ばれたことによる。江戸末期、楽斉の父小兵衛(大和屋)はこの新田を譲り受けた。以来親しみを込めて地域の方から「尼の毛受さん」と呼ばれたという。当地を巡る水路や小川「尼の川」の尼の字の由来でもある。「尼の川」は今なおかつての湿地帯の痕跡を残し、貴重な動植物の住みかとなっている。文=増田享氏(大東市教育委員会)

資料ご提供者=・橋本實氏(大東市文化財保護委員)

東京都の大村紘一氏よりご連絡を頂く。氏の曽祖父大村楊城氏は森琴石の明治29年作「白衣観音図」に書を揮毫している。明治38年作、森琴石の画帖への序文の下書きも遺されている。

大村楊城(おおむら ようじょう)
名屯たむろ。名古屋藩から維新後大阪陸軍に出仕、明治30年大阪連隊区司令長官を最後に勇退。大阪第八連隊の門標は、楊城の筆によるものである。 退官後は書家として、又漢詩の会「清呉会」を提唱、「逍遥游社」で活動した。徳川義親をはじめ、多くの政財界人や文人のほか、造幣寮吏長谷川為治や岡本撫山との交流もあった。琴石とも親交が深い大阪の漢詩家石橋雲来や、泊園書院の藤澤南岳、黄鵠、黄坡の儒学者父子、近藤南洲(元粋)とは特に親密に交際をした。大正2年69歳没。
 

情報伝達ご協力=松原洋一氏(オールアバウトジャパン)

 
平成15年6月

かねてより、資料や情報のご提供を頂いている”肥田晧三氏”のご情報により、明治12年森琴石編纂、響泉堂刻の「懐中便利 公私日用文章 全」を入手。

肥田晧三氏=元関西大学文学部教授・上方文化研究家

手許にある縦12.0cmx横16.5cmの画稿約40枚が、明治13年、森琴石編纂兼出版「南画独学揮毫自在」の巻3・巻4の画と、完全に一致する事が判明。

平成15年5月

堀田暁生氏より、自稿の「大阪の文明開化」のご提供を頂く。大阪の文明開化は、造幣局及び川口の居留地(西区安治川から始まる。森琴石は、川口の居留地を拠点とする清国文人等と深く関わった。胡公寿からは「三絶」と賞された。銅版画の腐食に不可欠な硫酸の製造は、明治5年2月、大阪の「造幣寮」での製造が、日本での始まりである。

堀田暁生氏=大阪市史編纂所長・大阪川口居留地研究家。
「三絶」とは詩書画、三芸にすぐれていること

平成15年4月

「諸家書画帖」初頭に「写 木曾駒込 鐵橋」と書かれた、淡彩による木曾路風景画がみつかる。

平成15年3月

森琴石が挿画を担当した、ジュールン・ヴェルヌ作「「九十七時二十分間 月世界旅行」を翻訳し、明治の翻訳家「井上 勤 いのうえ つとむ」のご子 孫、堀浩雄氏を尋ねる。氏の父堀正人氏、祖父堀春潭氏は共に学者。井上家、堀家 共に徳島藩「蜂須賀家」に仕えた名家である。

井上勤(いのうえ つとむ)=翻訳家。徳島藩医井上春洋の長男。徳島生れ。大蔵省・文部省等に翻訳掛として出仕。ジュールス・ベルン「九十七時二十分間月世界旅行」「月世界一周」、デフォー「魯敏孫(ロビンソン)漂流記」など明治初期西洋文学の移入に貢献。(1850~1928)

堀家(前羽)家は、初代堀若狭守信直の時、足利将軍義尚の側近にいて「前羽」の姓を貰う。三条実隆の家に仕え、また筒井順慶の為に大和郡山の城を死守した。明治まで阿波徳島の蜂須賀家に仕えた。第11代目春洋が徳島藩医井上玄貞の養子となる。井上春洋は医を「小石玄瑞」に学び、漢学を「頼山陽に学ぶ」。種痘のわが国初期の施術者の一人。井上勤弟の春潭(百千 ももち)氏が、堀家を継いだ。

響泉堂、森琴石による、銅版二十二葉の挿絵は、英語版に入っていた原書の木版挿絵を精密に模したもの。(移刻ともいう) →リンク情報 「明治時代のヴェルヌ翻訳事情

堀 正人氏=元関西大学教授・元附属図書館事務部長・関西大学東西学術研究所など歴任。

堀 春潭(ほり しゅんたん)氏=井上勤の実弟。神戸の漢学者。堀正人氏出版「春潭遺稿」(大正12年・水越成章、耕南,大西直三古仙校)がある。

資料ご提供=堀浩雄氏(堀正人氏長男)

平成15年3月
1・2日

島根県出雲生まれの門弟「嘉本周石展」が開催される。

 会場:嘉本豊氏自宅(嘉本周石ご子孫)
 主催:出雲市上津コミュニテイセンター(来観者200名以上)

嘉本周石―明治42年島根師範学校卒業後、森琴石門下となる。大正9年帝展に出 品作2点が同時入選を果たす。小原流家元小原光雲の挿花と南画の協同展を開催するなど東京でも活躍。日本南画院無鑑査や、大阪美術学校の教授に推挙されるが辞退し、昭和20年故郷に帰り、昭和51年88才で没するまでひたすら描き続けた。

門人紹介「嘉本周石」をご覧ください。



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