森琴石(もりきんせき)1843~1921

森琴石紹介 Mori Kinseki

森琴石とは略歴写真・文献抜粋(南画編<明治時代><大正時代><昭和時代>・銅版画編)|
家族・係累(生家と森家・森琴石の家族・係累人物

文献抜粋

(森琴石について書かれた文献資料をご紹介します)

―銅版画編―

下記文献について
★1 の 『日本版画変遷史』では、森琴石は若林長英には銅版画を学んだとあるが、実際には学んでいない。
★2 の 『日本銅版画志』での諸国名所図は、その後の調査により明治13年刊『和漢対照挿画 明治新用文大成』での挿画である事が判明。
★森琴石【響泉堂】の銅版画については、『美術フォーラム21 2006年第13号」の中、【特集】美術史家の価値評価を問う 南画家森琴石と銅版画師響泉堂―美術史の雑閙に紛れた画家の二重肖像(論文 熊田司氏)・・・・に詳しく論述され、更に『森琴石作品集』での、熊田司氏の論文「銅版画師 響泉堂をめぐって」が最も詳細で正確と思われます。



1:『日本印刷大観:  創業二十五周年記念』

昭和13年8月20日/東京印刷同業組合 編集兼発行
該当頁 147

印刷の起源及び発達
第一編 日本印刷史
第18章 我が国に於ける銅版の源流と発達

京阪に於ける銅版師

一方、京都に於いては天保の頃に井上九皐が漆を用いて銅版を腐食する方法を案出し、
尖の彫刻針で精密な版画を作った。

"嘉永、文久に至ると、岡田春橙斎(水月堂)や松本保居その子敦朝(後に松田姓に改む)が
現れて各々妙技を揮った。(松田敦朝伝記参照)
この種の銅版印刷によって、康熙字典その他膨大な辞書類が続々と開版されたことは普く 知らるゝ通りである。

大阪に於ける銅版師には若林長英、水口龍之介、渡邊清太郎、永井長江、長瀬忠次郎の諸氏が知られた。
若林氏は春水堂と号し、後に猶龍堂印刷所を起こした人である。水口氏は玄々堂に彫刻術を 学び一時玄々堂に従って東上し、太上官札の彫刻に携わったが、幾何もなく帰阪して銅版組合の初期の組長となった。

若林長英の門人永井長江は、終生銅版彫刻や印刷用図案に耽ったが、その門からは石版画師としては、伴定爾が出で、版画に独特の採筆を揮った。
大阪に於ける砂目印刷は初代玄々堂の門人松岡正識が東京から来て水口臥龍軒で始めたが先覚者として功績が少なくない。
森琴石は南画の名手で、銅版画にも優れていた、中田熊次の先代、中田貞矩銅版術をこの琴石に学んだのである。
中田氏は明治22、3年頃に、網目応用の色版煙草カードを初めて石版転写に応用して濃淡を表す方法を完成した。
明治36年に米国で石版彫刻を学んだ平田某は砂目のクライオンを塊にして布につけこれを金属版に描く製版法を試み、これを俗にこすり版とも称したが今尚行われている。(今井治吉、製版法の推移に就て)
即ち明治以前に於ける我が銅版界には、司馬江漢(天明)、永田善吉(寛政文化)岡田春橙斎(文政天保) 高井蘭山(同)安田雷洲(同)松田保吉(同)井上九皐(天明)松田敦朝(文久明治)の諸氏が漸次にその技を進めて来たのである。

■今回の『日本印刷大観・・・・』は、発行年が一番古いので掲載順序を(1)にしました。今後も当資料より古い年号の資料が出た場合、更新日の順序に因われず番号を繰り上げます。次の{(2)『南蛮美術総目録』}についても同様にしています。
■what's new 2011年9月7日「森琴石、銅版画の弟子あらわれる!!」をご覧下さい。
■文中の伴定爾、平田某、今井治吉については、後に what's new  で取り上げる予定です。
■文中の、若林長英(長栄)については、トップ頁の中央下グーグルカスタム検索でご検索下さい。「平成18年8月【3】」等、5ヶ所に記述しています。尚「雅友・知友」には まだ記述が出来ていません。

2:『日本版画変遷史』

島屋 政一著/1939 年(昭和14年)/大阪出版社刊/該当頁724~725

森琴石は南画を以て聞えたる画家であった、若林春水堂とは特に懇意にして、若林氏より銅版術を学び、琴石は若林氏が猶龍堂印刷所を創立するに際し多火の援助を興ふるなど交遊頗る深厚であった、然して中井利山、森琴石、若林長英、水口龍之助、中田貞矩の諸氏は、明治初年の大阪印刷界に奇興するところ甚だ多大であった。

3:『日本銅版画志』

西村 貞編/書物展望社発行/1941年(昭和16年/425~428頁

大阪では、また春水と期を同じくして、森琴石が銅鐫(どうせん)をこゝろみている。琴石は摂津州有馬の人、名は熊、本姓は梶木、幼時いでて森氏を継ぐ。彼は後年、押しも押されもせぬ南画壇の大家となつたが、そのはじめ高橋由一の門に入って洋画を学んだことがあり、のち大阪で堂号を響泉堂と称して、相当手広く、銅板彫刻の門戸を張っているところをみると、すくなからず隔世の感がないではない。不遇時代の狩野芳崖が、結城正明と一緒に銅板鏤刻の術を学んだ逸事と思いあわせて、まことに東西好一対の談柄たるを失わぬであろう。

琴石所刻の銅鐫作品で万目したものに、明治十年刊の日本地誌略附図、同十一年刊の達爾頓(ダジトン)氏生理学書図式があるが、前者は左海書肆双鶴堂、鈴木久三郎の出版で、後者は大阪松村九兵衞の出版である。水口龍之助との合鐫になることは前述の通りである。

この種類の作品では、明治十二年銅刻の谷喬編「詩韻含英異同弁」袖珍本四冊も注意すべく、同書巻一に赤壁を図した銅板図がある。但し琴石の手鐫による銅板作品では、なんと云つても銅鐫佩文斉耕織図二帖にとゞめを刺すであろう。

帖は焦秉貞の画図になる康煕(こうき)版を縮刻したものである。明治十六年年の発刻にかゝり、清朝三帝の御製の、輪郭だけが朱刷りになっており、画図は全て墨刷りである。刻線愼密をきわめ、摺刷また、見事なる出来ばえを示し、銅鐫の技術は完璧に近い。明治初期に出た諸銅板作品をひっくるめて、白眉の作と言うのも、必ずしも過言ではない。冊尾に「皇明治十六季七月鐫行 響泉堂森琴石刻」の刻記がある。右刻記を刻出していないものも伝存している。なお又、明治十年代の作と思えるもので、京畿をはじめ諸国の諸勝景を取扱った一枚摺り銅板の連作がある。触目したものは

西京嵐山之図
西京四條河原之納涼之図
西京如意山之図
山城宇治之図
摂津住吉之図
安芸宮島之図
兵庫舞子之浜図
紀州和歌浦拜殿之図
摂津箕面山之図
讃岐国金毘羅山之図
吉原富士山之図
東京浅草金龍山図
陸軍練兵之図
桂御別邸月波楼図
北海道之図
大阪造幣局図
大和月ヶ瀬図
中之島豊国社図
神戸布引瀧之図
江州琵琶湖之図

の二十図であるが、もちろん右の諸図以外に、若干の作図があるであろうことは言を俟たぬ。図によって多少ともに大小はあるが、竪四寸横三寸程度のもので、薄葉の仙花紙に摺刷されている。刻式はかなり緻密で、しかも腐蝕は深い。とりわけ神戸布引之瀧之図は構図や描写に破格のおもしろみがある。最後に挙げた江州琵琶湖之図に「大阪響泉堂銅刻」の刻記がある。

新撰梅渓月瀬眞図は折帖仕立てになっている。図の法量は竪一尺二寸横一尺六寸、月ヶ瀬全山の梅花満開の佳景を描出し、上欄に斉藤拙堂(さいとうせつどう)はじめ諸家の詩文、和歌、俳句の類を録し、梅渓と各村落の里程及び山水佳境の案内地図を添加して、探梅行楽の栞とするもの。明治二十年三月の刻製で、刻記に「編?兼図者大阪府平民森琴石」とある。

梅樹、茅屋、岩石の類から、さては重畳たる山嶽起伏のさまに至るまで、これを刻出するに南画の樹法皺法之至点体を以てして、清秀奇逸の筆をやるところ、おのずから独自の風格を流露して甚だ快適なる画面を構成している。当代の京摂銅板画家としては、彼はまさに石田雨麦亭と並称すべき画人であろう。大正十年三月世寿七十九を以て、没した。森琴石の流伝は明らかでない。伝によると玄々堂とは別流である

4:『維新の大阪』

鷲谷樗風著/発行輝文館/1941年(昭和17年)/290~291、296頁

大阪名所独案内(290頁末~)

明治十五年二月出版の明治新刻「大阪名所独案内」になると大阪全市の名所奮蹟を銅版画入りで説明している。殊に前者に比較すると五年の進歩があり、五代友厚、土居通夫、松本重太郎、藤田傳三郎其他大阪財界に活躍する人物多士斉斉たるものあったから工業的発展も顕著なるものある。

前記、藍と紙以外に○紡績場(いとつむぎ場)堂島浜通玉江橋西渋谷○玻璃製造(びいどろせいぞう)処々にあり○清酒及味淋火酒醸造所天満、堀江、上町其外所々にある○銅吹場西道頓堀其外所々にあり○製油所、梅本町と真島○鉱物分析所天満橋北にあり○造船、寺島、江子島、勘助島、西側町等にあり○練化石製造、難波新地六番町難波村所々○銅器鉄具製造、船器械、諸器物、製造なす工場安治川天満市中にある○鋳造場。中之島五丁目其外に有○黄銅線製造場、塩町通心斎橋筋東入○鉛版活字製造、北久太郎町二丁目周拡舎(東町一丁目国文舎支店等尚余は略す○同印刷処々に有○石版画製造、難波橋南詰龍雲舎○銅版鐫諸高牌製造、西横堀水口臥龍(高麗橋)響泉堂(高麗橋)若林(安土町)藤井(瓦町岡田)此外許多なり又印刷をなすもの算えがたし略せり○洋々会工業部銅鐫所、高麗橋筋すじかい橋東○製革場、難波御蔵東等書いてある、これが明治十五年頃、爾来六十余年、今日工業方面の発展、高度国防建設に科学と技術の精鋭をつくすわが国情を対比するときは余りに夢の如く偉大なる発展ぶりに驚かざるを得ない(292頁1行目まで)。

296頁8行目より
 江漢は長崎でいろいろ見聞して翌寛政元年二月十七日夜大阪に帰って来た、再び木村蒹霞堂を訪ね、長崎の国を描いて贈り、虎の画を料亭福屋に贈っている。江漢は銅版画創製を自慢していたが、亜欧堂田善も日本創製と唱えていた。斯くて銅版技術は各方面に発達し森琴石、石田有年、井上是堂、中村泰山、若林長英ら俊秀が現れたが、わが国写真術の先駆者下岡蓮杖が石版術を知りこれが動機で石版術の発達となり、今まで印刷界の寵児であった銅版はいつしか石版画流行期に入り大阪名所案内も石版利用と成った。

5:『南蛮美術総目緑』

旧池長コレクション 神戸市立博物館蔵 池長孟編集
昭和30年5月/神戸市立博物館 発行
該当頁286~287

第十八章 銅版画

第十三項 諸派

2人目
森琴石(響泉堂)
天保十四年・・・大正十年三月 七十九才
本姓梶木氏 名熊
摂津有馬の人。旅館中の坊の一族。大阪住。
高橋由一の門に洋画を学ぶ、銅版師承不明。後南画の大家となる。

西村「銅画志」425頁
小400―416 ◇諸国名所
①北海道之図  ②東京浅草金龍山図
③吉原富士之図 ④西京嵐山之図
⑤桂御別邸月波楼図 ⑥摂津住吉之図
⑦摂津箕面山之図 西村「銅画志」428頁
⑧大坂造幣局図  ⑨中之島豊国神社
⑩高津社之図  ⑪陸軍連兵之図
⑫紀州和歌浦拝殿之図  ⑬紀州高野之図
⑭神戸布引滝之図 西村「銅画志」67図
⑮兵庫舞子之浜図  ⑯安芸宮島之図
⑰讃岐国金毘羅山之図
折14 ◇ 月瀬勝景真図 明治20 大阪豊住幾之助刊
折15 ◇ 奈良名所独案内 金澤昇平著[木色摺]明治12
別50 ◇ 大阪名所 十枚二十景
若林長英及其門人長瀬長景と分担合作 (長英が正しい)
図63 ◇ 耕織図 二冊 琴石著 大阪吉岡平助等
琴石作 浸種以下,乾隆版耕織図焦秉貞図模刻
図64 ◇ 題画詩集 和豆本 四冊 明治12
琴石作 山水花鳥図多数 琴石の手沢本。朱校を施せり。
図65 ◇ 詩韻含英異同弁 谷喬編。
和極小 四冊(十八巻) 大阪此村彦助等。
琴石作 書斎図(無題)等。 全文銅刻
旧蔵「玄々堂蔵本」と秩に書せり。
図66 ◇ 増補詩韻珠? 江都余照春亭輯、日本谷喬増補 明治13
和極小 四冊(五巻) 大阪此村庄助等
琴石作 花図  「琴石刻。」全文銅鐫
図67 ◇ 月世界旅行 井上勤訳
(仏国ジュールス・ベルン著)明治21四版(明治19原)
洋小 一冊 東京自由閣発兄
琴石作 不具之砲銃会社々員嘆息之図等。
表紙兎餅搗 [石版]
第六OSAKA SHIMIDSU ENG.とも刻せり。
図68 ◇ 月世界旅行 井上勤訳 明治21
洋小 一冊 東京聚英堂蔵版
琴石作 前仝。表紙書斎と月兎図 [石版]
図69 ◇ 月世界旅行 井上勤訳 明治13
洋小 二冊(巻ノ三以下欠)大阪二書楼発兄
琴石作 前仝
井上 勤 号春泉 (森注:上記 図67 ◇ 月世界旅行 井上勤の説明を兼ねて書かれたようだ)

阿波徳島に生まれ、蘭甲比丹ドンクル・キュルムスについて
七才の頃英語を学ぶ。神戸商船にて通訳をなし、
後内閣制度取調局等にて勤務。通訳物多し。
沙翁の「ベニスの商人」等。神戸布引町にて病歿。その夫人は内田魯庵の叔母。
因みに勤の父は井上春洋とて
「亜墨竹枝」(漂流せし初太郎のアメリカ風俗見聞記なり)の著者なり。
又勤の弟は堀春潭とて神戸在住の漢学者にして漢詩をよくし、英語にも堪能なり。
春潭の子息堀正人氏は現在関西大学文学部教授にして英文学を専攻す。
甲比丹(カピタン)=東インド会社が日本に置いた商館の最高責任者「商館長」のこと。
ドンクル・キュルムスは、オランダの最後の商館長、ヤン・ドンケル・クルティウスと思われる。
第十五項  作者不詳 (292頁)
◎図書
図93 ◇ 詩画舫 明治13
和極小 一冊(山水三、四友二合) 京都 若林喜助
作者不詳(森琴石?) 最終に刀工高橋宇助、門人富三郎とあるも。之は木版刀工ならむ。

図94 ◇ 吟香閣叢画
和極小 六冊(山水二、花鳥三、人物一) 岸田吟香
作者不詳(森琴石?) 山水花鳥人物図多数
旧蔵 冨岡鉄斎画伯

◆what's new 2012年8月29日更新「文献抜粋:銅版編に『南蛮美術総目緑』 を追加」もご覧下さい
メモ
★上記井上勤の記述を元に、堀家を探し求め、平成15年3月堀浩雄氏(堀春潭の孫)を訪問させて頂きました。
★森家が岸田吟香に着目したのは、上記 作者不詳図94の情報 及び『歴史と神戸 第9巻第2号掲載の』掲載の「胡鉄梅と中野雪江」の一文がきっかけでした。これらの資料は、平成11年(1999)当時神戸市立博物館勤務の成澤勝嗣先生から頂いたものです。

★池長 孟 (いけなが はじめ) と 「南蛮美術館」の推移

?明治21年11月24日~ 昭和 30年8月25日。63歳。
?神戸市兵庫区生まれ。池長通の養子(旧姓井上)。号は南蛮堂。
?大正6年(1917)京都帝国大学法科卒。
?牧野富太朗を援助し、会下山(えげやま)に植物研究所を開設。
?私立育英商業学校の校長を務め、その間神戸を世界的な文化都市にしようという意図で、莫大な私財を投じて、南蛮美術を体系的に収集した。
?南蛮美術とは、
日本人の作品で、欧米や中国と関係の深い、異国趣味の美術品の事を言う。
「欧米の影響が刻まれ、日本が広い世界の舞台に乗り出した象徴なのである。だから宗教、風俗、地理、医学などとも関係があり、たんなる美術品に留まらず、日本近世文化史の主要な部分である」 ・・・・「南蛮美術総目録」による
?池長孟の世界的美術品収集への情熱は、1枚の絵を買うため1軒の別荘を売ることさえあったという。
?苦心の末収集した7000点以上の一流美術品のために、小川安一郎氏設計のアール・デコ調のしゃれた美術館を建て、昭和13年(1938)5月、「私立池長美術館」を開設、昭和15年(1940)4月より一般公開した。
?昭和19年年戦局悪化の為同美術館は閉鎖。
?戦後、池長氏より神戸市が美術品ごと館を譲り受け、同26年(1951)「神戸市立美術館」として開館。
?昭和40年(1965)4月「市立南蛮美術館と改称。
?昭和57年(1982)11月京町筋に新設の「神戸市立博物館」内に「南蛮美術館」を設け美術品を全部移転。(市立南蛮美術館は閉鎖)
【元「市立南蛮美術館」は、修改築を重ね平成元年(1989)6月、「神戸市文書館」として新たに開館し現在に至る】
以上、コトバンク、ウィキペディア、神戸市文書館HP、「夜明けの人びと ―兵庫百年―」 等参照

6:『名品散歩』  郷土の作家たち -18-

神戸新聞連載記事/昭和40年5月25日
森琴石「兵庫舞子浜之図」・・・・青木重雄記者
●著作権の保護期間が満了に満たない為差し控えます
●この記事を基にして2年後の昭和42年『兵庫県人物事典 中巻』(のじぎく文庫編発行)に、森琴石は銅版画家として紹介されている。筆者は同じく青木重雄氏。
●記事は平成12年、当時神戸市立博物館の成澤勝嗣氏よりご提供頂きました。

7:『近代日本版画の諸相』

町田市立国際版画美術館編/寄与者 青木茂/中央公論美術出版/1998 年/全526 頁
六、京・大阪の銅版画師
●『近代日本版画の諸相』は、著作権の保護期間中の為、書誌名のみご紹介致します。
●森 登氏の論文。頁155、158~159、164に亘り記述されている。
上記 5:『南蛮美術総目緑』等に記載されている 響泉堂刻 諸国名所図は、森登氏の文章により『和漢対照挿画 明治新用文大成』の中の挿絵である事が判明。
●文献資料は平成13年8月、当時大阪市城東区立図書館の久賀田明美氏よりご提供頂きました。

8:『版画事典』

室伏哲郎著/東京書籍/1985年
森琴石(もり きんせき 1843~1921)
摂州有馬生まれ。明治期の銅版作家。梶木姓。名は熊。
高橋由一に洋画を、松田緑山に銅版技術を学ぶ。
大阪で響泉堂と号し銅版彫刻を開業。
明治銅版技術の秀作「銅鐫佩文斎耕織図」のほか、「新撰梅溪月瀬真景図(1887)」などの作がある。
晩年は南画を描く。
●文献資料は、平成11年4月、高瀬晴之氏(姫路市立美術館)よりご提供頂きました。
★(6)(8)についての補足説明は、What’s New お世話になった方々「姫路市立美術館」で記述します。
森琴石とは略歴写真・文献抜粋(南画編<明治時代><大正時代><昭和時代>・銅版画編)|
家族・係累(生家と森家・森琴石の家族・係累人物

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