森琴石(もりきんせき)1843~1921

森琴石紹介 Mori Kinseki

森琴石とは略歴写真・文献抜粋(南画編<明治時代><大正時代><昭和時代>・銅版画編)|
家族・係累(生家と森家・森琴石の家族・係累人物

文献抜粋

(森琴石について書かれた文献資料をご紹介します)

―南画編―

大正時代


1:【大阪現代人名辭書】(大正2年/文明社編/文明社発行) より



森 琴石君(画家)

君は摂津の人、名は熊、字(あざな)は吉夢、琴石はその号なり。鉄橋道人の別号あり。

有名なる南宗画家にして浪華画壇の驍將(ぎょうしょう=大将)である。梶木源次郎の男にして、天保十四年三月十九日有馬湯山町に生まれる。家は代々商売をする。当歳にして森善作の養子となる。

早くから絵画を好み、かつ天賦の才があり、嘉永三年八月、大阪の画家鼎金城(かなえきんじょう)の門に入り、初めて画法を学び、文久元年六月金城の没後、忍頂寺静村(にんちょうじせいそん)についてもっぱら南宗派の描法を修める。元治二年三月大阪の儒家妻鹿友樵(めがゆうしょう)、高木退蔵等について漢籍詩文を学ぶ。

明治六年三月、東京の洋画家、高橋由一(たかはし ゆいち)について西洋画の法を伝習し、もって東西画法の長短を究め、その技が大いに進む。又筆を載せて東西を漫遊し、中国、九州、北陸諸地の名山江河を歩きまわり、各地の名家を訪ねて画の道を問い、又、古粉本(ふんぽん)を模写し、その技ますます熟す。

明治十六年全国絵画品評会を発起し、学画会、点睛会、扶桑絵画協会、日本南画会等を設立してその道の向上発達をはかり、翌十七年秋、全国絵画品評会を大阪に開く。明治二十三年東洋絵画会学術委員、樋口三郎兵衛と共に浪華画学校を設立(実際は明治十七年)して教鞭(きょうべん)をとる。早くもすでに、大家の班に列し、画名は浪城の丹青界(美術界)を壓(えん=充ちる)す。同年(二三年)九月宮内省より御用画の命を蒙(こうむ)る。

明治二十八年日清戦争の時、明治天皇が広島に行幸して大本営を置かれた。君はこの時二幅の山水画を揮毫(きごう=画を描く事)し、岡澤陸軍中將の手を経てこれを献上し、御嘉納された。

明治三十三年五月、今上天皇が、皇太子であられた時、御慶事奉祝画を献上、御嘉納の栄をいただく。明治三十六年十二月、内閣賞勳局より銀盃一個を下附された。西暦千九百十年(明治四十三年)英国倫敦(ロンドン)に開催された日英博覧會に、「松林山水」の大作を出品して、欧州人の賞讃を博し、有名なる英国の美術雑誌スタヂオに賛辞を掲げられる。

日本美術協会第一部委員、その他顧問審査員等の嘱託を受けること数次、又その作品が宮内省御用品となる事数回、博覧会、共進会、展覧会等に作品を出陳して、金銀銅牌、銀盃、木杯等を賞与される事数十回に及ぶ。

著書に、南画独学、題画詩集、墨場必携(ぼくじょうひっけい)等あり。画名、既に海内に振い、大正二年八月、遂に第七回文部省美術展覧会審査委員に任ぜられる。大阪の画家にして文展審査委員の重任をこうむるもの、実に君を以て、嚆矢(こうし=はじまり)とする。既に帝国絵画協会員、日本美術協会員、大阪絵画会委員、南宗画会顧問、日本画会評議員なり。 

(大阪、北区北野高垣町二四三四)


◆( )内のふり仮名や訳は森家による。

2:【絵画叢誌 第三一四巻】(大正2年8月/) より



★関連資料「絵画叢誌 記事」で紹介しています

3:【浪華摘英(なにわ てきえい)】より




●「浪華摘英」=浪華摘英編纂事務所編集・三島聰恵発行・大正4年

森琴石先生

先生は摂津の人名は熊字は吉夢、琴石と号す。鐡橋道人、聴香讀畫楼は其別 号なり。
客歳人の勧むるに逢ひ熊を繁と改む。
梶木源次郎の四男にして天保十四年三月一九日有馬湯山町に生る。
家世商売たり。生後間も無く森善作の養子となる。

嘉永三年八月鼎金城の門に入り初めて画法を学び、文久元年六月金城の没後忍頂寺静村に就いて南宗画の描法を修む。
元治二年三月妻鹿友樵、高木退蔵等に就いて経書詩文を聴き、明治六年三月東京に遊び洋画家高橋由一に就きて其画法を学び東西両洋の長短を究め、後筆を載せて諸国を遊歴し技愈熟す。

十六年全国絵画品評会を発起し学画会、点晴会、日本南画会等を設立して斯道の向上発展を図り、二三年樋口三郎兵衛と共に浪華画学校を起して教鞭を執る。

同年九月宮内省より御用画の命を蒙れり。日清の役山水二幀を広島大本営に、三三年東宮御慶事奉祝画献上、何れも嘉納さる。
三六年十二月賞勲局より銀杯を下賜さる。嘗て倫敦に開かれたる日英博覧会其他各地に出品して金銀銅牌等の受賞数十回。

大正二年八月、第七回文部省美術展覧会審査委員に任ぜらる。大阪在住者にして批重圧を蒙りし者実に先生を以て嚆矢となす。

著す所南画独学、題画詩集、墨場必携等あり。

其人と為り勧寛裕。平正人と交るに城府を設けず矍鑠清高頗る仙骨を帯ぶ。

余技七玄琴を善くし又石癖あり雲根館と名く。

夫人保子との間に二児を有す。男雄二は職を三井銀行に奉じ、女昇子は伊勢の人堀木氏に嫁す。
(北区高垣町二四三四)


偶 成
筆研生涯身更軽 終年揮灑不求名 寫花畫鳥閑中楽 自勝王侯冠榮
秋 思
微雨黄昏落葉落 空窗独座聴秋声 荒畦野渡人歸盡 白鷺猶留一點明 
題古谷石
一片雲根好自崇 爽凉含気碧玲瓏 云從古谷山中至 (しゅつりつ峰容不假工

[訳]
偶 成
筆研の生涯 身は更に軽く
終年の揮灑(きさい) 名を求めず     (揮灑ー書画を描くこと)
花を寫し鳥を畫く閑中の楽しみ
自から王侯冠帶の榮に勝らん
 
秋 思
微雨 黄昏 落葉落ち
空窗(くうそう)に独座して 秋声を聴く  
(空窗ー窓を開けた部屋)
荒畦 野渡 人歸り盡き
白鷺 猶も留まるごとく 一點の

 
題古谷石(古谷石に題す)
一片の雲根 好(よ)く自ら崇(たか)く  (雲根-ここでは石)
爽凉の気を含む 碧玲瓏(へきれいろう)

云(くも)は古谷に從い 山中に至れば 
  (「云」は雲の古字)
(しゅつりつ)の峰容 工を假(か)りず )



[:しゅつりつ=(山の下卒)+(山の下律)]

◆訳文
大原俊二氏=米子市史編纂事務総括・米子市図書館協議委員・米子市山陰歴史館運営委員・米子藤樹会理事・著書に「短詩集ま ぼろしの海」、「児玉 玉立異聞」、共著に「とう(口へん+答)然」、「山陰の近代漢詩」(入谷仙介・大原俊二共著・ 山陰の近代漢詩刊行会発行・2004年11月)がある。

◆「浪華摘英」本文中浪華畫学校が明治23年とあるが、正しくは明治17年7月13日に開校された。
『大阪文化史研究』〔魚澄惣五郎編纂・星野書店発行・1943(昭和18年)による。

◆「浪華摘英」ご提供者=大塚融氏(数寄者研究家、経営史研究家・神戸大学文学部講師)

4:【御大典紀念 日本ダイレクトりー】より

阪本筑峰編輯蒹発行/甲寅通信社発行/大正5年5月25日
画家  森 琴石君
帝国有数の大家を以て称せられ、霊妙の技極致に達し関西丹青界の第一の称あるは君なり、
攝津の人、梶木源次郎氏の男にして 天保14年3月を以て有馬湯山町に生る、
名は、字吉夢、號を琴石といふ、別に鐵橋道人の號あり、
稍長して森家の姓を襲ふ、幼にして絵画を好み、
嘉永3年8月父に請ふて大阪に出て時の大家鼎金城翁に師事して画法を学ひ、
文久元年師の歿するや轉して忍頂寺静村の門を叩き専ら南宗派の描法を修む、
元治2年大阪の儒家妻鹿友樵高木退蔵等に就て漢籍詩文を学ひ造詣する所あり、
明治6年東京の洋画家高橋由一氏に師事して 西洋画の妙趣を研究し
以て東西画法の長短を究め、技漸く進むるに及ひ、筆硯を載せて東西に遊ひ、
中国、九州、北陸、東海等各地勝区を探討して、跋渉に年を重ね
上下名士に訂交して、詩酒徴逐の遊を縦にし、旦さに技を研きて帰る、
是れより技大に進み入神の妙あり、明治16年全国絵画品評会を発起し、
学画会點晴会扶桑絵画会日本南画会等を設立して斯道の向上を図り、
翌17年秋全国絵画品評会を大阪に開く、
明治23年浪華画学校を起して自ら教鞭を執り、同年9月宮内省より御用画の命を拜す、
明治28年明治大帝広島に御駐輦の砌利山水の画2幅を献納し、明治33年5月今上陛下
御慶事の際奉祝画を献上して御嘉納の栄を重ね、明治36年12月美術界の功労者として
賞勲局より銀杯1個下賜せられ、明治41年日英博覧会に『松林山水』を出品して
欧州人の眼を驚かし有名なる英国美術雑誌スタジオに賛辞を掲載せられる、
日本美術協会第1部委員、其の他顧問審査員等の嘱託を受くること数次、又其作品にして
宮内省御用品となること数回、博覧会、共進會、展覧会等に作品を出陳して、金銀銅牌
銀盃木杯等を賞與さるる数十回に及ひ、名声四海に振ふ、大正2年8月第7回文部省美術
展覧会審査員に挙げられ、現に其職に在り
公正其審査に力むると共に、躬ら模範的作品を出陳して 当代丹青界の精華を示し、現時
帝国絵画協会日本美術会大阪絵画会委員南宗画会顧問日本絵画会評議員として
斯界の発達に貢献しつつあり、
資性寛宏にして平正、人と交わりて毫も城府を設けず(うちとけて分け隔てなく付き合う事)、酒々落々として自ら恬?(てんき=安らかで楽しい事)を好むの風度を示せり、  (大阪市北区北野高垣町2434)
:原文の行移動を少し変えています。
浪華画学校は明治17年7月13日に開校。
言葉の意味
城府を設けず=打ち解けて分けへだてなく付き合う事
酒々落々(しゃしゃらくらく)=こだわりがなくさっぱりしている事
恬?(てんき)=安らかで楽しい事
注:what's New平成24年10月10日更新の「お知らせ&補足」をご覧下さい

5:「京阪神における事業及人物」 より

山川茂雄編輯発行・東京電報通信社発行・大正8年10月

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