森琴石(もりきんせき)1843~1921

森琴石紹介 Mori Kinseki

森琴石とは略歴写真・文献抜粋(南画編<明治時代><大正時代><昭和時代>・銅版画編)|
家族・係累(生家と森家・森琴石の家族・係累人物

文献抜粋

(森琴石について書かれた文献資料をご紹介します)

―南画編―

昭和時代


1:【森琴石翁遺墨帖 乾坤(もりきんせきおう いぼくちょう けんこん)】より




森琴石著・編輯兼発行者:近藤翠石(門弟)・昭和2年(1927年) ・編集補助:佐野岱石、西尾雪江
〔乾 題字:内藤湖南  序文:藤澤黄坡  詩文:木蘇岐山 / 坤 森琴石小伝:近藤翠石〕

★題字=内藤湖南 ★詩文=木蘇岐山
題字=内藤湖南

詩文=木蘇岐山

森琴石肖像=平成20年10月に記述


★序文=藤澤黄坡
序文=藤澤黄坡

(一)

藤澤黄坡 序文(現代文)


私の幼時しばしば父の使にて伏見町の森琴石翁の邸に往きました。翁は親切に労わって下さいました。私は其情味溢れるおだやかな君子振りの翁を知りました。後年私が長じて父の供で画會に参りました時翁の画を拝見、その筆跡のなだらかな且風格高遠な人と為りを知りました。大正戌午秋(大正七年秋)高垣町の翁の邸を訪問しました。翁は齢七十六歳でしたが益々新情味を加へ更に濃くなって居られたのです。画房の内には奇石を列べ古陶器を陳列してあり、其を画いて楽しんで居られ、益々有神の技見事でした。三年後翁は歿せられましたが更に一年後父は奇しくも同じく七十九歳で歿しました。

翁は嘗って高木・妻鹿先生に漢詩を学ばれたのですが吾父も同門で御座います。先月近藤翠石君が来られ来年二月先師森琴石先生の七回忌を期し諸家の所蔵される百十点を画帖にする計画を知り序文を書く事になったのです。併し遺風を宜揚するに薄学にて充分書き表はす自信が有りません。翁はかって私に語られた處に依ると若い頃東京に遊び西洋画家高橋由一先生に就き学ばれ遠近法を會得翁の画風に更に磨きを加へられたのです。此を以て厳然と風格筆力共に一家を成し老いては益々熟し一代の巨擘となられ南宗画の為南に北に更に東西にはしり其名を高めその名実相備ふるや他に比無しであります。翁の人格の高遠さを少しでも御理解下されば、此書を以て啻(ただ)に翁の遺風を伝ふる計りでなく後進者にその指針となればとここに誌しました。      大正丙寅(大正十五年)書す   黄坡藤澤 章す

◆藤澤黄坡(ふじさわ こうは) については、「関係人物紹介:藤沢黄坡」 をご覧ください 。


(二)森琴石先生小傳 (門人近藤翠石赤彦氏漢文の解釈)

森琴石先生
先師森琴石先生歿後七年、未亡人保子刀自及令嗣雄二君其七回忌法要営むに当り、私等佐野岱石、西尾雪江両君と協力して各々辱知の諸彦の賛同を得て、此遺墨帖を編纂す。

今予ねて録せし先生小伝、先生におゆるし願い、不文を顧みず其略を叙す。
先生は森、名は熊、字は吉夢、琴石、又鉄橋道人と号す。
梶木源次郎の男にて天保十四年三月十九日有馬に生れ、九歳森善作の養子と為り、夙に絵画を好む。
嘉永四年、鼎金城の門に入り初めて画を学ぶ。文久元年金城没後、忍頂寺静村に就き六法の要訣を究む。

元治二年、妻鹿友樵、高木退蔵に就き漢籍を修む。明治六年東京に遊び、西洋画家高橋由一の門を叩き、東西画法の長短を考へ、明治十年西南役後、清国墨客名手の来舶に会ふや率先して交はり以て浙派(南宋画派)の薀奥を極め、苦心の末遂に一格を樹つるに至る。後筆を持って諸国を漫遊し、景勝に触るれば画彙に収め其技益々熟せり。明治十六年全国絵画品評会を発起し、後更に学画会、点晴会を設立し更に絵画協会、日本南宗画会等を設立又博覧会、展覧会審査員顧問等の嘱託等を受く。

数次其作画は宮内省御用を御受けせし為め明治三十六年内閣賞勳局より銀盃下附さるる。

著書に南画独学、題画詩集、墨場必携あり。

先生偶ゝ(たまたま)病に罹り大正十年三月二十四日遂に起られず、享年七十九有九.其病褥にあるといへども筆硯措くを肖(かえ)んぜず絹紙に対し画想を凝らし、苦中の快の為め忌(や)めず。

其の天賦の努め実に驚くに足る。これ老懶(ろうらい)なる者の泰斗とならん宜(む)べなるかな。

此帖其の壮年時より歿年時に至る細次の便に序し以て画状変遷の跡を明らかにするものなり

昭和二年二月上旬萬象堂南窓下に於て書す

門人  翠石近藤赤彦識(しる)

◆漢文の解釈は、「森琴石画集」(森寿太編、野村廣太郎発行・昭和49年・非売品)による。

2:【「真偽評価 書画鑑定指針 近代南宋諸系」 】より




  吉岡班嶺著/帝国絵画協会/昭和2年12月日発行

★この伝記は「平成20年1月【2】注3」と同じ内容です。
★吉岡班嶺=「平成19年2月【1】注9」、「平成20年1月【2】に記述しています。


―森琴石 伝―

本姓は梶木、父を源三郎(注:正しくは源次郎)といひ、琴石はその三男。

天保十四年三月十九日、摂津有馬郡湯本に生れ、幼にして旧大阪町役人森善作(注:正しくは森善蔵※)の養子となり其の姓を冒した。

※森善蔵=本名伊平(平成19年7月【2】)

琴石名は熊、字は吉夢、通称を琴石といひ、叉之を號となし、別號を鐵橋、畫屋を聽香讀畫庵と称した。

幼より畫を好み、八歳の時(注:正しくは数え6歳)早くも鼎金城に就いて南宋画を學び、金城の歿後は更に忍頂寺静村に師事して益々南画を研究し、叉西洋画を高橋由一に學び、傍ら漢学を高木退蔵、妻鹿友樵に就いて修めた。

性漫遊を好み名山大川を跋渉しては、寫しては、家に蔵した、而して天才的技能に加ふに多年の修養を以てし入神の妙を極め、清人胡公寿は曾て書を寄せて詩書画三絶と称した程画名大いに振ふに至った。

維新の際顧みられなかった画運の漸く勃興するに及び、琴石は斯道の発達に盡瘁して寧日なく、獨力展覧会を開き、建言書を出し、或いは審査員となり諤々の議を闘して向上に努め、叉明治十七年には大阪に画学校を興した事があった、其斯界に盡した功に依り明治三十九年賞勲局より御紋章入銀盃を下賜せられた。

又日本美術画会委員、東京南宋画会顧問、日本画会評議員、大阪南宋画会顧問、大阪絵画会委員等に挙げられ、大正二年八月には文部省美術審査員に任じられ、同年帝室技芸員に列せられて関西南画界の巨擘を以て唱へられた。

其の画は山水を最も得意とし、各地展覧会、博覧会に出品して金銀銅牌を受領すること数十回に及び、就中明治四十二年日英博覧会に出品した「松溪幽穏」の図が会心の作にして世評高かった、叉御用画の恩命に浴した事も度々であった、著書に南画獨學、題画詩集、墨場必携等がある。

琴石は性謙譲、居室には常に先師の筆を掲げて居ったといふ、その趣味詩文に長ずるは勿論、七弦琴を能くし技神に入るといふ、大正十年二月二十四日、七十九歳の高齢を以て、大阪北区高垣町の居に歿した。

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