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37年前に発表された論文に、注目する事が記述されている。
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- 『古美術 第45号 特集平家納経』は、1974年(昭和49年)7月、三彩社から刊行された。
- その『古美術 第45号』の93~99頁にかけて、新資料紹介として、鈴木進氏の―岡田半耕筆 花下美人図 附陶製人形― という論文が収録されている。
- 論文の前には、岡田半江の画幅「月下美人図(極彩色)」のカラー写真と、その部分図を拡大したモノクロ写真が各1頁づつ、次に「桜下遊楽図」の屏風図とその部分図が各1頁づつ占めている。次、3頁にわたる論文の中には、附属の<陶製人形>のモノクロ写真が添えられている。画幅とは面立ちと立ち姿の向きが少し違うが、衣装の模様や琴、唐扇に至るまでそっくりに模されている。そして論文の末尾には次のような文言で締めくくられている。
- なおまた、其の後の調査によって、この作者名が判明したので付記しておこう。
- この陶美人の箱の表には「岡田半江 王昭君三図摸造極彩色土偶」とあり、この「樹下美人」を王昭君としている。そして、次の作者氏名が記してある。
- 土偶 大賀可楽
- 極彩色 上田耕沖
- 団扇山水 森 琴石
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論文著者の鈴木進氏は、美術研究家、評論家、「東京都庭園美術館 名誉館長」を最後として、生涯を美術研究家として活躍し、平成20年7月、96歳で歿した。
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『古美術 第45号』を出版した「三彩社」は、大正~昭和期、数々の美術誌を刊行した事で知れる。創業者の藤本韶三 (しょうぞう)氏は 美術ジャーナリストとしても活躍した。
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論文は37年前のものであるが、著作蒹保護期間中である事、出版社が現存しない事もあり、★に簡単に概略をご紹介致します。
★山水を得意とする岡田半江の美人画は異色の作品である。
★それには当時の中国文化一辺倒という背景があり、その影響で当時の文人画家、南画家がかなり幅広い制作活動をしていた事が伺える。
★岡田半江は、父岡田米山人と同様、藤堂家に仕えたが、文政5年に辞職し、大坂に住み、田能村竹田、頼山陽、浦上春琴などと交友し、当時の注目すべき文化圏を形成していた。
★画幅に附属して、画幅にある二人の美人をそのまま摸した<陶美人(二体)>があり、画幅以上の華麗な彩色が施されている。人形は珍重すべき文雅の遊びとして、当時の支那趣味に寄せる憧憬の記念として忘れがたいものでる。<
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極彩「月下美人図」は文化14年(丁丑仲秋 1817年)に描かれたもので、桜の木の下に唐美人と侍女(琴を抱く)の立ち姿を描いたもの。唐美人の袂(たもと)からは(山水に詩文を添えた)唐扇が描かれている。唐扇の山水画は半江の父「岡田米山人」のもので、詩文は「浜田杏堂」によるもの。更に注目すべき事は、画幅には、画幅にそっくりの「陶製人形」が附属されている。陶製人形は「大賀可楽・上田耕冲・森琴石」のコラボレーション(共同作業)により実現した。この三者の取り合わせに注目したい。
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「岡田半江」は森琴石の画の師匠「鼎金城」の師匠でもあり、森琴石は当然この大師匠「岡田半江」を尊敬しており、森琴石の日誌には鑑定をしたという記述があり、森琴石の最晩年の<箱書き鑑定>の控えにも、その名が幾度か出てくる。森琴石は、半江の作品を日常的に作品を見る機会があったと思われる。
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森琴石は、文献では「山水画」が得意と書かれおり、骨董市場では「山水画」が圧倒的に多い。しかし、森琴石が残した下絵類には「唐美人」などの美人画も非常に多く、これらに興味を引かれる事が多々ある。恐らく大阪の郊外や地方の<蔵>の中で、世に出るのを待つ<美人画>がかなりありそうだ。
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陶製人形の作者「大賀可楽」に関する伝記、人物像についての資料は殆ど無く、「大阪人物誌 続編(石田誠太郎著・昭和11年)」や、「大阪人物辞典」(三善貞司著・平成12年)くらいしか無い。
「大賀可楽」は《元山口県の藩士で、明治10年西南の役に出、被弾し足が不自由となった。生来の器用さと不屈の精神で、土人形の制作を始め、大阪をその活路の場とした。大阪博物場での展覧作品は秀逸無類のものと高く評された》という人物らしい。
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それ以外には、小原流の華道の創始者「小原雲心」が、若い頃「大賀可楽」の門に入り、彫刻を学んでいたという事が『島根県歴史人物事典』(平成9年、山陰中央新報社刊)に記述されている。
文久元年(1861年)雲州松江に生まれた雲心は、当初彫塑家を志しており、 その技量は明治29年に開催された「京都美術展覧会」に出品した「布袋和尚像」が明治天皇御買い上げとなる程であった(出典=明治期の文人花と盛花)。
弟子の技術がこのように高いという事は、師匠の「可楽」は相当な腕前だったと推測される。「大賀可楽」の生没年は不明であるが、明治24年11月に結成された「日本美術協会大阪支会」の技芸員部門には、その名が無い事から、それ以前に歿した可能性がある。何故なら弟子の「小原雲心」は、陶磁器部門で技芸員として名が出ている。
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大阪には「大賀大眉」といい、山口県長門出身の元萩藩士で、幕末には勤皇活動を盛んにしていたという人物がおり、萩焼の窯元<泉流山窯>を復興し、慶応2年ごろに兵糧用のパン製造を試みた事でも知られている。維新後は大阪に出て、鎮台(陸軍)出入りの御用商人となり、砂糖や靴の工場を経営し、また詩歌もよくしたという。『浪華の魁 諸名家:国学及び和歌』部門で「大賀大眉」の名が出る。資料に乏しい文献からは、二人の接点を伺い知る事は出来ないが、「大賀可楽」と「大賀大眉」は共に同姓である事、山口県の出身である事、陶芸に関与していた事など、「可楽」と「大眉」とは、どこかで繋がりがあったと考えられる。因みに「大賀大眉」は明治17年に歿している。
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森琴石は「大賀可楽」や「大賀大眉」の出身地、長門など山口県とは縁が深く足跡も多い。琴石は焼き物(陶磁器)の窯元との関係や足跡も多々ある。当HPでは「相野青牛」という<森琴石の木像肖像座蔵>を作成した彫刻家の存在がある(「平成20年10月【1】・【2】」)。
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森琴石の門下「嘉本周石」は、昭和6年、大阪の白木屋百貨店で「小原雲心」の子「小原光雲」と、「挿花五十瓶・南画五十幅展」のコラボ展を開催、更に昭和9年、東京青山国風館で、同じく小原光雲とのコラボ展を開催していた。これは、小原雲心が松江の製陶家の家に生れた事、「平成18年4月【2】注5」で記述していますが、森琴石は松江近郊の布志名焼きの窯元で茶碗に染付けをしていた事など、先に森琴石と小原雲心や大賀可楽との縁があった可能性がある。
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上田耕冲は四条派の画家であるが、森琴石とは浪華画学校、大阪画学校の教員仲間であり、大阪絵画品評会を提唱するなど、共通する活動が多く見られる。二人は会派を超えた交流があったようだ。
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残念な事に、論文は新資料紹介としながら、資料の出典、「月下美人図」及び附属の「陶製人形」の所蔵先が書かれていない。
約40年前に書かれた論文が、その後の美術研究に於いて、どのような展開を見せていったのであろうか?
森琴石調査開始以来12年半、「大賀可楽」という人物が当時大阪で大変話題を呼んでいた彫刻家で、その作品の彩色や付属品は、当時の<大阪の大物画家>が担当したという事実を知り驚いた。
どのような調査経緯で判明したのか?作品の一端を担った画家の子孫としては、この事が一番知りたいところである。
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下に上記文章中に出る人物の略伝を記します。
★以下は デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)、その他を使用しています
- 岡田米山人 (おかだ べいさんじん)
- 1744-1820江戸時代中期-後期の画家。
延享元年生まれ。大坂で米穀商をいとなみ,米をつきながら勉学にはげんだので米山人と号した。伊勢(いせ)津藩大坂蔵屋敷につかえ,画家の浦上玉堂らとまじわり,山水花鳥の文人画を得意とした。文政3年8月9日死去。77歳。大坂出身。名は国。字(あざな)は士彦。通称は彦兵衛。別号に米翁。
- 岡田半江 (おかだ はんこう)
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1782-1846江戸時代後期の画家。
天明2年生まれ。岡田米山人(べいさんじん)の子。父から書画をまなび,伊勢(いせ)津藩大坂蔵屋敷につかえた。40歳をすぎて職を辞し,頼山陽,田能村竹田らと交友をむすび,緻密精細な筆致による山水画を得意とした。弘化(こうか)3年2月8日死去。65歳。大坂出身。名は粛。字(あざな)は子羽。通称は宇右衛門。別号に寒山,独松楼。
- 浜田杏堂 (はまだ きょうどう)
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1766-1815*江戸時代後期の医師,画家。
明和3年生まれ。大坂の人。医師の浜田氏の養子となり,名医としてきこえた。画を福原五岳(ごがく)にまなび,のち元(げん)・明(みん)(中国)の画をまねて山水人物花鳥をこのんでえがいた。行書も得意とした。文化11年12月22日死去。49歳。本姓は名和。名は世憲。字(あざな)は子徴。別号に希庵など。
- 上田耕冲 (うえだ こうちゅう)
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1819-1911江戸後期-明治時代の画家。
文政2年生まれ。上田耕夫の子。大坂で長山孔寅(こういん)にまなぶ。死の1年前に大阪天満宮に襖絵(ふすまえ)「鷹狩と雪中老松」をえがいたという。明治44年1月21日死去。93歳。京都出身。通称は万次郎。
- 大賀可楽 (おおが からく)
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(1)大賀氏、旧山口藩の士なり、可楽と号す、陸軍軍人となり明治10年西南役に従い奮闘して足部に弾傷を受け遂に跋となれり、性技巧を好み 後ち浪華に来たり大阪博物場に於て各種の泥像を制作して世人の好評を博せり、惜哉未だ其の歿年を詳にするを得ず -『大阪人物誌 続編』(石田誠太郎著・昭和11年)-
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(2)人形制作者。生没年不明、山口藩士。維新後明治政府の軍人となり。明治10年(1877)西南の役に参加。被弾し歩行不自由となった。以後大阪に住み、生来の器用さを生かして土人形の制作を始め、大阪博場で展覧し世の穂湯版を得た。秀逸無類といわれる。-『大阪人物辞典』(三善貞司著・平成12年)による。
- 大賀大眉 (おおが だいび)
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国事に奔走した多才な商人 大賀幾助 (注:ここは萩市役所のサイトのものを使用させて頂きました)
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文政10年(1827)、萩椿西分大屋の酒造業大賀家に生まれる。のち大眉・成史と号した。安政4年(1857)、31歳のとき村塾の孟子の会に参加する。翌年山陽方面に遊歴し、元治元年(1864)には奇兵隊の屯所に度々訪れている。この頃、前小畑の泉流山窯を復興し、自ら絵付けをして磁器を焼いた。その屋敷は志士たちの集会所になっていたという。慶応2年(1866)の四境戦争前後には、兵糧用のパン製造を藩に建白して許可されている。
維新後は大阪に出て、鎮台(陸軍)出入りの御用商人となり、砂糖や靴の工場を経営したという。また詩歌もよくした。明治17年(1884)大阪にて没、享年58歳。
- 藤本韶三 (ふじもと しょうぞう)
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(1)1896-1992大正-昭和時代の出版人。
明治29年10月3日生まれ。関東大震災後,美術雑誌「アトリエ」「画論」などの編集に従事。昭和18年の戦時統制による雑誌統合で大下正男と日本美術出版(のち美術出版社)を設立。戦後,独立して三彩社をつくった。平成4年4月4日死去。95歳。長野県出身。筆名は多田信一。
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(2)明治29(1896)年10月3日~平成4(1992)年4月4日■大正・昭和期の出版人、美術ジャーナリスト。三彩新社会長。日本美術出版社を創立。日本画誌「三彩」を刊行。季刊古美術専門誌「古美術」を創刊。―(C)日外アソシエーツ「CD-人物レファレンス事典 日本編」より―
- 小原雲心 (おはら うんしん)
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1861-1916明治-大正時代の華道家。
文久元年5月19日生まれ。小原流の創始者。はじめ池坊をまなぶ。水盤による盛り花を考案し,明治45年小原式国風盛花(もりばな)の名称で独立。生け花の近代化に影響をあたえた。大正5年1月1日死去。56歳。出雲(いずも)(島根県)出身。旧姓は高田。本名は房五郎。別号に六合軒。
★補足:松江市の製陶家の次男として生まれ、小原家の養子となる。
- 小原光雲 (おはら こううん)
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1880-1938大正-昭和時代前期の華道家。
明治13年12月生まれ。小原流初代家元小原雲心の長男。商人をこころざすが,小原流盛花(もりばな)の普及のため,大正5年2代家元をつぐ。女性教授者の養成,集団教授法の考案など,小原流の発展と組織の確立につとめた。昭和13年8月13日死去。59歳。島根県出身。本名は光一郎。
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