「来舶清人」(らいはくしんじん)とは、主に江戸時代後期から明治時代初期にかけて、中国から日本へ来航した中国人のことを指します。この時期、中国と日本との間で積極的な交流が行われ、特に長崎などの貿易港を中心に多くの中国人が商業活動や文化交流のために来日しました。「来舶」は「船に乗って来る」ことを意味し、「清人」は清国(現在の中国)の人々を指します。したがって、「来舶清人」は「船に乗って来た清の国の人々」という意味になります。
この時代の中国人は、日本における中国文化の紹介者としても重要な役割を果たしました。彼らは文学、芸術、医学、技術など、様々な分野の知識を日本に伝え、日中の文化交流に大きく貢献しました。また、来舶清人の中には日本に定住し、日本社会に溶け込んで活動した人々もおり、日本の歴史や文化に影響を与えたとされています。
森琴石は、明治初期に胡鉄梅や王冶梅らの清人画家と交流する機会が多く、彼らの活動を支援しました。琴石も中国の書画の伝統的な技法や美学を取り入れ、新しい時代の表現を追求しました。
このページでは、森琴石と来舶清人の書画交流を調査した内容をご紹介します。
「森琴石と来舶清人とのかかわり」について中国絵画史の専門家である京都大学の呉孟晋先生によりご寄稿いただきましたので、 こちらに掲載いたします。
呉 孟晋(京都大学人文科学研究所 准教授)
森琴石にゆかりのある書画のなかにみえるおもな清人は次の9名である。以下、簡単に琴石とのかかわりを紹介したい。
■参考記事
呉孟晋氏の論文「森琴石ゆかりの来舶清人」の紹介
「日本の伝統文化文化を問い直す」(臨川書店、重田みち編)呉孟晋氏の最新論文=「森琴石ゆかりの来舶清人の動向について」が掲載されました
胡鉄梅(こ てつばい・1848~1899)は名を璋といい、安徽桐城の人。上海に出た後、光緒6年(明治13年(1880))に来日。売画で生計を立てながら各地で文人と交流した。上海では日本人妻の生駒悦と古香室牋扇屋を経営するかたわら『蘇報』を創刊。明治32年(1899)、神戸で没した。森家には、琴石三十八歳肖像(1880)や白衣観音像、王冶梅との合作で琴石に贈った「牡丹蛺蝶図」(1881)が残されている。
胡は、この時期の新聞記事で琴石の名とともに報道された清人でもある。たとえば、明治15年(1882)11月の『大阪朝日新聞』朝刊には、次のような広告記事が出ている。
清国胡鉄梅先生/先生滞坂書画嘱詫多ク、当地発足難被致、今暫ク高麗橋栴檀木橋筋森琴石先生方ニ在テ揮毫有之間、此旨書画好事ノ諸君ニ告ク、/紹介人 北久宝寺芥池東 紅華堂澤田、/平野町一丁目 脩竹堂藤此
出典:(『大阪朝日新聞』朝刊、1882年11月9日付、第4面(11月11日にも出稿)読点は呉追加/以下同)
胡が高麗橋の琴石宅に滞在して書画の揮毫に応じる旨を伝えている。「紅華堂澤田」と「脩竹堂藤此(藤谷此蔵)」は、ともに大阪画家の作品をとりあつかう表具屋であった。12月28日付の同紙朝刊(第2面)では、「有名の画家清客胡鉄梅氏の久く当地の森琴石氏方に滞在し揮毫せられし処、今度阿波徳島へ招聘に応じ赴る」と、胡の徳島行きを報じている。明治18年(1885)4月23日付朝刊(第4面)にも、琴石は「友人 森琴石」の名で胡鉄梅の揮毫広告を出した(翌24日も出稿)。
なお、胡鉄梅を師と仰いだ柚木玉邨の書簡集には、明治18年(1885)5月に胡鉄梅が森琴石の紹介で四国の高知に赴く旨を記した書簡が翻刻されている(胡璋(鉄梅)「足徴高誼」『西爽亭懐旧尺牘』、柚木久太発行、1944年、64頁)。
王冶梅(おう やばい・1831年生)は名を寅といい、江蘇江寧(南京)の人。太平天国の動乱のために画を鬻ぎながら上海に流れた。幾度も来日し、大阪を拠点に京阪神の文人と交流を深めた。森家に残る書画は胡鉄梅との合作のほかに、森家蔵の「書画貼り交ぜ屏風」に一図あるのみだが、琴石とは『冶梅石譜』(1881)や『歴代名公真蹟縮本』(1883)などの画譜出版で協力関係にあったようだ。
王冶梅については 資料紹介>詩賛1 をご参照ください衛鋳生(えい ちゅうせい・1828年生)は名を寿金といい、号は頑鉄道人。常熟の人。字の鋳生で通行した。当時の新聞記事によれば、明治10年(1878)に来日していたことがわかる(「広告」(衛鋳生、横浜に来游)『読売新聞』朝刊、1879年9月25日付、第4面)。琴石が描いた実景山水図の代表作のひとつである「月ケ瀬真景図巻」(1882)に「曾邀睿賞」の四字の題字を大書して、皇室にゆかりのある展覧会での受賞を祝福した。
陳曼寿(ちん まんじゅ・1825~1884)は名を鴻誥、字を味梅といい、秀水(浙江嘉興)の人。号の曼寿で知られ、別号に乃亨翁、寿道人など。詩文に秀で、『日本同人詩選』(1883)は清人が編集した初の日本漢詩集である。森琴石筆の「月ケ瀬真景図巻」では、衛鋳生につづいて跋をしたためた。
黄吟梅(こう ぎんばい)は名を超曾といい、号は金鼇釣徒。蘇州府崇明県の人。黎庶昌(1837~1898)の随員として来日、神戸や横浜の領事館に籍をおいた。在日中の詩作は『東瀛游草』(1885)にまとめられている。「月ケ瀬真景図巻」には、外題箋を書した。
金吉石(きん きちせき)は上海の人。 王冶梅らの図のある「書画貼り交ぜ屏風」に詩文を寄せている。明治17年(1884)7月には来日を伝える新聞記事が出た(『大阪朝日新聞』朝刊、1884年7月5日付、第3面)。
いくつかの作品や詩文から、黄一夔(こう いっき)の貫籍は「粤東」(広東)で、またの字を堯卿というようだ。王冶梅とともに「書画貼り交ぜ屏風」に画を寄せており、その印章から「祖舜」を字号としていたことがわかる。
『海上墨林』によれば、朱印然(しゅ いんぜん)は浙江の人で、字の印然で通行した。胡公寿(1823~1886)の門弟で、山水は気韻渾厚で、よくその師に似たという。森家にある「書画貼り交ぜ屏風」に山水図を寄せている。明治16年(1883)11月に瀛萍社が『大阪朝日新聞』に出した広告によると、その時点で7カ月日本におり、翌月帰国すると伝えている(「清国朱印然先生」(広告)『大阪朝日新聞』朝刊、1883年11月16日付、第4面)。
許子野(きょ しや)は字を鋳冶、慶麐といい、号は五湖外史、江東布衣など。江蘇呉江(蘇州)の人。やはり、「書画貼り交ぜ屏風」に画が貼り込まれているが、その識語から琴石とは、はじめのうちは面識がなかったようである。
この項の記述は、呉孟晋「森琴石ゆかりの来舶清人の動向について」(重田みち編『「日本の伝統文化」を問い直す』臨川書店、2024年3月)より一部内容を抜粋して再構成しました。
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