森琴石(もりきんせき)1843〜1921

森琴石 門人紹介

これまでに収集した資料による森琴石の門弟の紹介、
および森琴石に画を習ったとされる門人名を出身地別に紹介します。
(注:一部の門人名や画号の読み方に間違いがある場合もあります)
門人一覧≫

主な使用文献、資料
1:明治30年時の「門弟名簿」 資料ご提供=大熊敏之氏(宮内庁三の丸尚蔵館)
2:「続浪華摘英」(発行兼編纂 三島聴恵・大正五年十二月刊)=大塚融氏(元NHK記者・数寄者研究家・経営史研究家)よりご提供
3:「姿態横生」(日本中央南宗画会刊・明治44年7月)=渡辺淑寛氏(栃木県真岡市)よりご寄贈
4:「大日本書画名家大鑑」(荒木矩著・第一書房発行・昭和50年1月)
5:「増補 古今日本書画名家辞典」(玉椿荘楽只著・大文館発行・昭和14年)
6:「京阪神における事業及人物」(山川茂雄編輯発行・東京電報通信社発行・大正8年10月)
7:森琴石日記
  (明治42年8/3 〜10/7、明治45年2/15〜7/31、大正元年8/1〜10/5 間での断片的に残るもの。
   「近藤翠石」などのように、日記内記載が多い門弟については省略する。)
  翻刻者=成澤勝嗣氏(神戸市立博物館)
8:その他

近畿地区

大阪府

市内(北区)

粟井 春泉 (あわい しゅんせん)
粟井 春泉
写真は「姿態横生」より
(一)
名は彪。字は周保、通称保郎、春泉と号す。慶応二年十月大阪堂島に生る。幼にして水原梅屋の門に入り画法を学ぶ。梅屋没後専ら自修に勉む。近年悟る所ありて小山雲水(注:小山雲泉の誤記)に就き指導を受く。
−「姿態横生」(日本中央南宗画会刊・明治44年7月)−

小山雲泉は明治44年に歿している。この「姿態横生」発刊も同年であるため、粟井春泉は、雲泉歿後に、森琴石の門下として画を学んだと思われる。


(ニ)
大阪の人、森金石の門に南画を学ぶ −「大日本画名家大鑑」荒木矩著−



(三)森琴石日誌
大正元年八月六日 晴
○午後、栗井病気見舞来訪有之、菓子到来


(四)森琴石<喜寿祝賀記念品奉呈目録>(大正7年12月1日附)に名あり


鎌田 梅石  (かまた ばいせき)
鎌田 梅石
写真は「姿態横生」より

明治九年2月〜没年不詳(大正初期に歿したと思われる)

(一)
名梅石  住所  大阪市西区新町南通二丁目二二二番屋敷 (明治30年・門弟名簿)

鎌田梅石門弟
福田小洲  名寅吉  住所  大阪市北区壷屋町二丁目百十七(明治30年・門弟名簿)


(ニ)
明治八年大阪に生る、年十一森琴石の門に入り、よく師法を守り 小琴石の称あり
−「大日本画名家大鑑」荒木矩著 −

(三)
(明治九年二月生) 
○通称新太郎、字は抱琴、梅石と号す。
○幼より画を好み、森琴石に従い、南画を学び、傍ら妻鹿友樵に詩文を学ぶ。
○後四国、九州などを遊歴し、去る四十一年に朝鮮を漫遊す。 
○諸会へ出品して優勝を得たること数回。    
○住所 大阪市北区北野高垣町五二七 (森琴石の近隣)

−「姿態横生」(日本中央南宗画会刊・明治44年7月)−





(四)森琴石日誌

明治四十四年八月七日 晴
○東京南宗画会、九月二日ヨリ三十日迄、展覧会開催致ニ付、出品之義、山岡米華ヨリ依頼越ニ付、近藤・西尾・鎌田・吉村ヘ出品通知致ス (山岡米華=高知県出身・大展審査員・大正3年47歳歿)
明治四十四年八月廿一日 晴
○近藤・佐野・鎌田来ル、今日、南宗画会今日迄之総テ之計算致し、帳簿ニ明記持参見之
明治四十四年八月廿五日 晴
○早朝、野口琴渓稽古ニ来ル、東京出品画持参ニ付、鎌田ヘ差遣ス
西尾雪江来ル、東京出品画持参、鎌田ヘ差遣ス
午後、乾李渓罷越ス、東京出品画持参ニ付、鎌田ヘ差遣ス、
明治四十五年四月廿三日 曇 折々雨
○午前、芝田堂来ル、姫島社中、全国南宗画展覧会、七月博物場開催規則書持参ス
右ニ付、鎌田罷越し、帝国南宗画会展覧会開催ニ差支可申哉ト申之ニ付、一応幹事集合○○協議可有之旨、相答置  (芝田堂=京都の美術商/姫島社中=姫島竹外門下)
明治四十五年五月八日 晴
松山晩翠氏、現今東京ニ滞留、南宗画会会長・中御門男爵ヘ依頼承諾有之旨通知有之ニ付、早速鎌田ヘ申聞ル
明治四十五年五月十日 晴
○朝、鎌田来ルニ付、南宗画件、無油断進行可致様、申聞
明治四十五年五月丗一日 曇、同夜雨
○午前、松山晩翠氏来訪有之、過日中東京ヘ被行、南宗画会々頭・中御門氏ヘ依頼之件、被話、鎌田呼寄、委細為聞取 東京海苔・一鑵到来
明治四十五年六月二日 日曜 晴
鎌田梅石、今日、岸松楼ニ於テ、一時掛ケ之画会開催ス、午後、ヤス、寿太召連罷越ス、誠ニ盛会ニ有之
明治四十五年六月十五日 晴
○網島町鮒卯ニ於テ薮田氏所蔵之古書画置物陳列有之ニ付、午前九時ヨリ鎌田同道遊覧ニ罷越ス、午前十一時過帰宅
明治四十五年六月廿日 晴
○午前、近藤翠石来リ、鎌田同道、南宗画会箕面展覧会ニ付、箕面電車会社ヘ照会ニ罷越ス
○午前、明田月樵罷越ス
明治四十五年六月廿二日 晴
○朝、福田梅渓来ル、奥田来ル   (奥田=森琴石門生と思われる)
鎌田、佐野、箕面電鉄事務所ヘ罷越シ展覧会開催之件ニ付、都テ(すべて)テ合(手合わせ)ヲ致候旨、申之
明治四十五年七月九日 曇雨、午後晴
鎌田、近藤、西尾、名古屋ニ而開催之辻画会ヘ出席シ、今朝帰宅ス
辻画会=辻東山の画会の可能性あり)
大正元年八月三日 晴
鎌田、佐野同道罷越シ、昨夜南宗画会幹事会之結果、申来ル
大正元年八月七日 晴
○朝、鎌田、佐野、昨夜南宗画会幹事会之件ニ付、来ル
八月十日 晴
雄二(注:森琴石長男)、今回当地三井銀行西支店ヘ轉勤引越ニ付、今朝八時梅田駅着ニ付、ヤス、小児三人、■■、鎌田召連、出迎ニ罷越、機嫌能、無事着阪、帰宅ス
九月十八日 曇
鎌田梅石来ル、先月来ヨリ病気ニ而引籠居、今回転地療養ニ付、西宮ヘ引越候旨、申之
九月廿日 晴
○朝、西尾雪江来ル、箕面展覧会ヘ鎌田代理ニ罷越ス
鎌田梅石病気之為西宮ヘ轉地療養可致ニ付、今日同地ヘ引越候由ヲ以罷越申之
註:森琴石日誌は、各日付には多くの内容が記述されていますが、当HPでは該当する人物が記載されている個所のみ掲載しています。


(五)鎌田梅石の作品

●森琴石&鎌田梅石 合作扇面 『不老長春図』

紙本墨画淡彩
(天地15,7 上弦47.5 下弦20,5cm)
明治35年5月
老松=森琴石
薔薇=鎌田梅石
不老長春図

☆「扇面」ご提供者=橋爪節也氏(大阪市立近代美術館建設準備室 主任学芸員)より平成17年秋にご寄贈頂きました。

●扇面 『鶴図』

所蔵
佐賀大学附属図書館 <市場直次郎コレクション>
扇面目録 305
紙本墨画淡彩
(天地 16.3 上弦 49.7  下弦 23.1cm)
製作年不明 
鶴図
平成16年8月■2番目」に記述しています。

★画像ご提供=佐賀大学附属図書館

● 書 『石敢當』
所在地=御津八幡宮(みつはちまんぐう)=大阪市中央区心斎橋/製作年不明

元々は近隣に住む旅館経営者木村氏が自宅前の道に建てたもの。同家の再度に亘る建て替えにより廃棄処分される寸前、近隣の御津八幡神社のご厚意により同神社に移築された。
「石敢當」や、鎌田梅石書による「石敢當」の画像は「平成19年11月【1】」に記述ご紹介しています。

● 『鳥合作図』(明治44年6月頃)
渡辺美術館(鳥取市)所蔵 =「平成17年3月■2番目」をご覧ください。

「池田桂仙」・「田村宗立」・「河村虹外」・「秦金石」・「森琴石」・「小山雲泉」・「山本梅荘」・「鎌田梅石」・「永松春洋」・「大江良起」・「加藤英舟」など、35家による

● 寄り合い画帖など
舩田舩岳(控え帖=平成16年5月)・嘉本周石(画帖)・田川春荘(屏風)・石橋雲来(画帖)等、森琴石門下や交流者のご子孫宅に足跡資料や作品がありますが、いずれもメモ忘れや撮影漏れの為、ご紹介する事が出来ません。


(六)その他足跡及び文献資料

★明治24年7月
第8回「秋田伝神画会」にて 3等褒状。
伊藤石僊(三等賞 褒状 乙科/森琴石門下)と共に「浪華学画会員」として出品。
   〜「絵画品評会記事」(秋田伝神画会著/秋田伝神画会刊/明治25年3月)〜より
平成18年10月【1】注2」に記述
★明治27年1月
「新撰年中重宝記」(千葉胤矩編/千葉胤矩刊/明治27年1月)
  27頁目<古今書画人名便覧:現今南北諸派‐大阪>に「鎌田梅石」の名あり
★明治34年10月
「日本南画協会一宮支部」発会 
第一部:書画展観に「山水図」出品
    〜「日本南画協会 一宮支部発会図録 全」(明治34年10月20日の記録)〜より
平成17年5月■4番目注5」に記述
★明治43年3月初め
舩田舩岳の葬儀に列席(鳥取県西伯郡名和町)
★明治43年3月
「大阪絵画会」結成事での委員を務める
大阪絵画会=大阪絵画の不振を嘆ぜる丹青家300余人を集め結成された絵画会
委員としては池田遥邨・萩尾九皐・庭山耕園・西川桃嶺・大塚春嶺・若林松谿・鎌田梅石・山田秋斎・喜多暉月・湯川松堂・御船綱手・平井直水 など
−「新修大阪市史 六(平成6年)』 <文化・芸能の展開>−
★明治43年7月
「日本中央南宗画会」に「山水図」を出品
森琴石日誌
★明治45年6月末
「南宗画会 箕面展覧会」  ―門下分をまとめる―
★明治44年9月9月2日〜30日
「東京南宗画会」  −門下分をまとめる−
★明治45年4月〜
7月開催の「帝国南宗画会」(大阪府立博物場)  −門下への取次ぎ−
★明治45年6月2日
「岸松楼」にて、画会開催。盛会。
★明治45年7月9日
名古屋「辻画会」へ出席
★大正元年8月
「南宗画会 幹事会」出席
★大正元年9月20日
療養の為、西宮市に転居
以後の消息 不明


■鎌田梅石は、近藤翠石と並ぶ森琴石が期待を寄せる高弟の一人であった。大阪の若手画家の中心的存在として活躍していたが、舩田舩岳などと同じ病を患ったと思われ、大正元年9月20日、西宮市に療養の為移転するが、その後の足跡を示す資料が無い。明治30年の門人録には、「福田 梅渓」は「鎌田梅石」の弟子として記載されているが、その他の文献では森琴石の弟子として紹介されている。



華田春耕 (はなだ しゅんこう)
 
名春吉  住所 大阪市北区松枝町 (明治30年・門弟名簿)



市内(東区)

岩城 石峰 (いわき せきほう)
名平三郎 住所 大阪市東区高津番外百二十九番地(明治30年・門弟名簿)


内山 茸江 (うちやま じょうこう)
(一)
名猶之助 住所 大阪市東区北浜三丁目(明治30年・門弟名簿)


(二)
「増補古今書画名家一覧」(石塚猪男著編・明治39年)より

「増補古今書画名家一覧」 「増補古今名家一覧」の袋
↑左から2人目:内山茸江
(内山泉石はその6人右にあり)
「増補古今名家一覧」の袋



内山茸江と下記内山泉石は、身内と思われる。

★上記「増補古今書画名家一覧」には、森琴石門生名が多く見られる=番付表は後月、資料編でご紹介の予定です。



内山 泉石 (うちやま せんせき)
住所 大阪市東区北浜三丁目(明治30年・門弟名簿)


改発 弥兵衛 (かいはつ やへえ)
改発彌兵衛宛 葉書
(一)
住所 大阪市東区南本町三丁目(明治30年・門弟名簿)


(二)
●大正6年9月15日付、琴石〜改発彌兵衛宛 葉書


(三)
「森琴石翁遺墨帖 乾坤 」より

森琴石第七回忌遺墨展 出品遺墨作品

1:「渓山訪友図」=大正 2年/絹本水墨/発丑嘉平月下澣寫於讀畫盧南窓下 栞石
2:「東離採菊図」=大正 2年/絹本淡彩/発丑冬日 栞石
3:「雪江釣魚図」=大正 2年/絹本淡彩/発丑冬日寫於讀畫盧 琴石



「森琴石翁遺墨帖 乾坤」
 森琴石著
 編輯兼発行者:近藤翠石
 編集補助:佐野岱石、西尾雪江


遺墨展は昭和2月2日、琴石大阪市北区の「正法寺」で開催された
 因みに、森琴石が住んだ北区高垣町2434の居宅は、「正法寺」の敷地の一部を借りうけたもの

清水 琴堂 (しみず きんどう)
名平造  住所 大阪市東区平野町二丁目九十四番屋敷(明治30年・門弟名簿)


高木 鶴城 (たかぎ かくじょう)
名謙吉  住所 大阪市東区清堀番外七四五番(明治30年・門弟名簿)


土方 辰郎 (ひじかた たつろう)
住所 大阪市東区今橋二丁目(明治30年・門弟名簿)



原 石城 (はら せきじょう)
(一)
名福松  住所  大阪市東区備後町四丁目(明治30年・門弟名簿)


(二)
掲載書誌画稿

★右枠外に -備後町 原- とあり
同形式の画稿は、門人:摂津「北島華谷」にもあります

左端下 「何杏村」=か きょうそん=河副作十郎の事

平成20年9月【2】に記述



吉川 拝石 (よしかわ はいせき)
(一)
明治9年4月10日・森琴石妻「ゑい」葬儀控

塾と書かれた文字中に名あり

塾中の氏名=「河邨学而・米津菱江・永田正信・山口竹陰・吉川拝石・森田亮明・藤井光栄・白井昇太郎・早野栄■郎・西本鱗太郎」の10名。


(二)
名猪三郎  住所  大阪市東区北久太郎町1丁目 (明治30年・門弟名簿)


波多野 華涯 (波多野 花涯・はたの かがい)
波多野 華涯
写真は 「華涯 −波多野華涯の世界−」 より
(一)
「農商務省博覧會掛版 第二回内国絵画共進会 出品人畧譜」
波多野元子 花涯ト號ス
波多野善四郎ノ女ニシテ 文久三年五月十一日生ナリ
■明治八年 小學下等科ヲ卒業シ 夫ヨリ進級學校 集成校等ニ入リ
同八年十一月 東京跡見校ニ入リ 同十三年卒業シ
■十四年四月ヨリ 畫ヲ森琴石ニ 讀畫ヲ河野通胤ニ學フ
(二)
名猪三郎  住所  大阪市東区北久太郎町1丁目 (明治30年・門弟名簿)
(三)
「華涯 −波多野華涯の世界−」の年譜 より
文久3年(1863)年5月、元水戸藩士波多野善四郎元実の長女として大阪に生まれる。名はモト、又元。

明治2年、7歳で和算を福田利軒に学び、後、百済小学校から難波別院内進級学校ならびに中学校に学ぶ。

明治8年(13歳)、東京に遊学、跡見女学校第1期生として入学。跡見花蹊に書画を学ぶ。14歳の時、明治天皇皇后両陛下に、御前揮毫をする。

明治13年(18歳)、跡見女学校卒業後、瀧和亭に花弁着色法を学ぶ。明治14年春帰阪し、河野通胤河野春(馬+風)に漢詩を学ぶ。明治15年、森琴石に山水法、石橋雲来に漢詩を学ぶ。この頃、森琴石の紹介で清人王冶梅朱印然らと漢詩を唱和。このころから、伊藤博文とも交流が始まる。

明治17年(22歳)、再び上京し、漢学を小山春山に学ぶ。さらに瀧和亭に再び師事する。このころ中山仲子(註:故天誅組中山忠光の長女)から八雲琴を贈られる。

明治19年(24歳)、帰阪し、常磐女学校で漢書並びに編物を教授する。明治20年9月(25歳)木村作之助と結婚、長女をもうけるが、22年7月(27歳)離婚、波多野姓に復籍する。

明治28年8月3日、父善四郎死去(63歳)。翌29年初春、厳島大願寺の住職松峰光典と再婚、大阪を去る。

明治35年、西尾雪江が波多野花涯に学ぶ。(注:森家追加)      

45歳の明治40年、夫光典は台湾、上海に赴任、海外布教にあたる。花涯は、謡曲、和歌を習う。展覧会開催。

大正6年(55歳)、岡山の書家<入澤きん(日+斤)江>に招かれ、岡山に転居。号を華涯とする

大正7年(56歳)、東京小石川に転居後、再び岡山に転居する。全国の文人と盛んに交流する。

大正9年(58歳)3月、母さき死去(83歳)。11月、岡山市大正館で<波多野女史作品展>を開催。岡山での活動が盛んとなる。翌10年(59歳)、有香社を結成。門下生は数十人を超える。

その後、大正末期〜昭和にかけて、展覧会開催や、書画展での受賞を重ねていく。昭和7年(70歳)には、門下生は100人を超える。

昭和8年(71歳)、東京<貴族院研究会(濱口儀兵衛ら主催)>の画の指導、同11年(74歳)、日本文人画協会展審査員となる。昭和14年(77歳)喜寿を迎え、同15年(78歳)1月、桃を100枚揮毫し、「百桃子 もとこ」と号した。同17年、興亜書道連盟監査会員となる。

昭和19年7月18日(82歳)勃。岡山市法界院にて葬られる。



=小田切マリ氏(波多野華涯ひ孫・つくば市)著出版、「華涯 −波多野華涯の世界−」の年譜より まとめさせて頂きました。

(四)掲載書誌類

1  「雲来詩鈔 巻一」(石橋 教=石橋雲来著・明治15年)に記述あり。
2 「日本同人詩選」(陳鴻誥=陳曼寿編纂・土屋弘出版・明治16年3月)
巻四に「波多野女史−號花涯 浪華人」で、詩一首。
3 「月課詩鈔※」(石橋雲来著・明治19年) 
第一集に詩三首。
4 「現今名家書画一覧」(明治40年改正)  ・・・・現在名家 アキミヤジマ波多野花涯・・・・
5 「大日本著名画家名鑑」(明治40年改正) ・・・・前頭 安芸厳島波多野花涯・・・・


(五):波多野花涯を詠んだ 漢詩二首

2:「王冶梅」の漢詩
明治14年、森琴石の”読画楼”で詠んだ詩=資料紹介 詩賛:王 冶梅「詩書」をご覧ください。
1:「朱印然」の漢詩
明治15年、花涯が東遊するに当たり詠んだ詩=「平成17年6月」をご覧ください
[原文翻刻]
最是離情歳暮身、寒蟲凄切更為鄰。
原知閨閣藏清質、何事蓬帆繋此身。
澱水細流含恨去、海門相望寄書頻。
勸卿自把光陰惜、莫負東都墨塢春。
花涯女史東遊、有留別詩、次其韻、
聊為祖程、似正。清國朱印然拜手。
[訓読]
最も是れ離るるの情、歳暮の身、寒蟲、凄切にして更に鄰と為る。
原(も)とより知る閨閣清質を藏す、何事ぞ蓬帆、此の身を繋ぐ。
澱水の細流、恨みを含みて去り、海門に相ひ望む書を寄することの頻りなるを。
卿に勸む自ら光陰を把りて惜み、負く莫かれ東都の墨塢の春に。
花涯女史、東遊せるに、留別の詩有り、其の韻に次し、
聊か祖程を為して正すを似(ま)つ。
清國の朱印然、拜手す。

翻刻並びに訓読=陳 捷(ちん しょう)氏(国文学研究資料館助教授)


(六)その他 当HP記載ヵ所=平成17年4月■8番目5月」・「平成20年10月注2


堀内 謙吉 (ほりうち けんきち)
(一)
『近畿医家列伝』(古尾照次郎著作蒹発行/大阪史伝会発行/明治35年1月10日)より
堀内謙吉君

丹後国舞鶴(牧野豊前守)の藩たり、岳君を利國という、
利國君李子なるの故を以て医を志し、京都の漢医新宮涼閣*に従って学ぶところあり、
新宮君を信ずる厚く以て嗣となさんとせしも、時暫らく蘭学に志す者多く
君も亦その要を悟り乃ち師に請いて長崎に遊び修むるところ少なからず、
事或るに及んで大阪に来り、蘭人ブッケーマン氏の阪地に来たりし際の如きは
通訳としての功多かりき
後名暫くあがる、次で大阪鈴木町に病院の設立せられたるあり、
君聘せられて、ここに医員たりしが、鎮台病院建設せらるるに及んで
陸軍に入り軍医として院のことを司る、これ明治二年なりき、
然れども君が天命甚だ長からず、去二十八年歳五十三、軍医部長の栄職に在て斃(れ)る

謙吉君は明治三年を以て生れ、七才に及んで鈴木町の師範学校附属小学校に入り、
卒って尋常中学、官立大阪中学校(今の高等学校の資格)に在り、
十六才にして上京し一年半ほど麹町斯文黌(内藤恥叟等*の設立)に入り、
次で慶應義塾に転じ、十八才の秋(九月)更に転じて岡山第三等中学医学校に入て
医術を研磨しいたるも、君の覇気や碌々普通の医学校にあるに堪ず、
翌年四月同校を退き独逸(ドイツ)に遊ぶ、
君先ず連邦ダクセン国*ニナ市(エナ)に於て専心国語を習い傍ら普通学を補い、
翌年四月バーデン国フライブルグに赴き医科大学に入れり、
君が元来の希望は解剖学の薀奥を極めんとするにありしも厳君の意と合わず、
余儀なく耳鼻咽喉科の医術を学ぶに至る、

其後春秋を閲する四年にして大学を卒業し、
幾何もなくして更に墺太利亜、維納(ウィーン)の大学に入り、
尚耳鼻、咽喉の学を研究せり、緒方正清、同_次郎君等はその同窓たり、
去二十七年業成り、ドクトル、メヂチーネの月桂冠を得て帰朝す、
途次伊太利を廻り観光を恣(ほしいまま)にせりという、

君一見貴公子の如し、これ蓋し岳父の豊富なる資を受けて
学を修し次で今の今橋一丁目に開業患者甚だ多く
嘗て世の行路難なるものを味わい得ざるものに職由する(根拠とする)たらんか
★注釈
*新宮涼閣=幕末・明治の医者。丹後生。古河自勝の五男。号に白雲・涼園等。医学を宮鬼園に学び、その養子となる。明治18年(1885)歿、58才。 (by コトバンク)
*内藤恥叟=漢学者・歴史学者。1826(文政9)年出生、1902(明治35)年没。 "常陸国生れの旧水戸藩士で名は正直、号は碧海、水戸藩校弘道館で会沢正志斉・藤田東湖に学び、海防物頭、弘道館教授などを勤めた。1878(明治11)年東京小石川区長、1886(明治19)年帝国大学教授などを歴任、1899(明治32)宮内省嘱託となり皇典講究所等でも歴史を講じた。(by 文字鏡研究会WebPage)
*ダクセン国=ザクセン王国・・・・1806年から1918年までドイツに存在した王国。
(二)
『大阪現代人名辞書』(文明社編、刊/大正2年11月)より
堀内謙吉君(医師)

大阪の人、堀内利國の長男也、明治三年を以て浪華の地に生きる、
祖先は代々丹後舞鶴城主牧野豊前守の家臣たりしが、祖父の代に至り
君の父利國季子の故を以て、別に一家を創め醫を業として世に立つに至る、

岳父は壮年の比、郷関を去りて 京師に出で、漢法醫新宮凉閣の門下となりしが、
新宮家にては利國の才を愛し、養ふて嗣となさんとす、時偶々蘭学渡来して、之を学ぶもの甚だ多し、
利國亦た蘭学の必要を悟り、新宮家の懇望を斥けて同家を辞し、長崎に往きて蘭学を修む、
業成りて後大阪に来り蘭人ブッケーマン来阪の際其通譯として功あり、
其名漸く顕はれ大阪鈴木町(現在此町名なし)に病院の設立せられし時、
招聘せられて其醫員たりしが、明治二年鎭臺病院(今衛戍病院)の設立に方り、
陸軍々醫を拝命し爾来其職にあり、軍醫部長に至りしが明治二十八年齢五十三にして歿しき。
               (注:上8行は、父國利の伝記)

君は岳父が陸軍々醫となりし翌三年を以て生まれしなり。
君七才の時鈴木町の師範学校附属小学校に入り卒つて、尋常中学校の業を卒へ、
直に当時大手門前にありし官立大阪中学校(現今の高等学校格)に入りしが、十六歳の頃、
東京に遊び、内藤耻叟等の設立にかかる麹町區斯文学に学ぶ、

次いで慶応義塾に転じ、十八歳の秋九月更に岡山第三等中学醫学校(現在官立醫学専門学校)に転じたるも居る事少時にして外遊の志を起こし、
翌年四月退きて独逸に遊び、ザクゼン國エナ市に留まりて独逸語を学び、
傍ら普通学を補ひ、其翌年四月バーデン國フライブルク市に赴いて、醫科大学に入れり、

君は最初解剖学を目的としたるも岳父の容るる処とならず、
耳鼻咽喉科を専門に研究する事四年、同大学卒業後墺太利亜國維納大学に入り、
尚耳鼻咽喉学を研鑽し、其の蘊奥を研め、
明治二十七年業を卒へてドクトル、メヂチーネの学位を羸ち得たり、緒方正清、同_次郎などは其同窓たり、
同年帰朝の途に就き伊太利を回遊して、無事大阪に帰り、
現在の処に開業して、耳鼻咽喉科専門の診療に従事して今日に及ぶ、
君が風貌一見貴公子、患者に接するに親切を極め、診療を乞うもの門前に市をなす。

(大阪、東、今橋三ノ十一、電本局一九六〇、一九六一番)
★伝記補足
堀内謙吉は父國利と母九重(緒方洪庵の5女)の間に生れた。謙吉夫妻には子が無く、森琴石門下「氈受楽斎」の末の妹を養女にした。その後の謙吉の家族については不明であるが、「平成23年2月【2】」での情報ご提供者「中山沃(すすぐ)」氏によれば、堀内家は絶家したとの事です。
★(二)の資料ご提供者=西宮市中山沃(そそぐ)氏
(三)資料
1:森琴石「喜寿祝賀記念品贈呈者」氏名に名あり。
          ↓
  「平成20年10月【2】注2」をご覧下さい
2:「資料:舩田舩岳の日誌」の中、3月16日〜5月25日迄頻繁に<堀内>の名が出る。
(四)著書
1:『喉科新書 上巻』(堀内謙吉著/丸善株式会社書店、同支社発行/明治33年5月19日)
2:『麦飯爺』(矢島柳三郎 編/掘内謙吉出版/1927)
(五)掲載書誌
1:『正続 一年有半』(中江篤助=中江兆民著/博聞館/大正6年12月)
  
 『正続 一年有半』 が発行される経緯(幸徳秋水による前書き)、及び 『正続 一年有半』の内容が「らんだむ書籍館 NO86」で紹介されています。(この分 2011/8/19記)
2:『「近代日本文学の誕生」:百年前の文壇を読む』(坪内裕三著/2006)
  第104頁・・・・中江兆民余命「1年有半」を宣言される・・・・に記述あり
3:『近代日本社会とキリスト教』(杉井六郎、杉井六郎先生退職記念事業会著/同朋舎/1989)
  第329頁目に記述あり
4:『日本耳鼻咽喉科史:学会創立90周年記念』(日本耳鼻咽頭科学会著/1983)
5:『日本科学技術史大系 第23巻』(日本科学技術史学会/第一法規出版株式会社/

◆「平成23年5月【1】」に、堀内謙吉について触れています。 


吉村 清琴 (よしむら せいきん)
吉村 清琴
写真は「姿態横生」より
(一)
名―すみ。明治廾年五月生大阪に生る。
幼より画を好み十歳より藤田台石に就き画を学ぶ。
後、森琴石の門に入り、益々画法を研究す。
曽て諸会へ出品し、賞を受けしこと数十回。
住所、大阪市長堀南通4丁目            (「姿態横生」)
(二)森琴石日誌より
明治42年
八月十九日 晴 同夜之中、降雨
吉村清琴来ル、岸本日東ヨリ依頼之
画絹本三枚、相渡ス、且、同謝儀も渡ス、
十月六日 晴
○作画会、岸本日東罷越し、来ル九日ヨリ開催之
仝展覧会出品、受取ニ罷越ニ付
吉村分二枚西尾一枚、佐野二枚 右山水画相渡ス、
明治45年
五月九日 晴
○朝、吉村静琴来ル、坂上属之画帖画十
二枚、揮毫出来持参、見之、直接坂上ヘ相持遣ス
五月十四日 曇折〃晴
○午前、坂上力松罷越ス、吉村清琴ヘ属之
画帖潤筆持参ニ付、預リ置、早速、右吉村通知ス、
五月十七日 晴
●午前、坂上力松罷越ス、依頼之自画幅二個、
箱書出来ニ付、相渡ス、并吉村清琴之画帖 画相渡ス
大正元年
八月五日 晴
○午後、坂上力松来訪有之、
吉村清琴縁談、明六日荷物相送リ候旨、申之     :大市氏に嫁ぐ
○早朝、吉村清琴之母、罷越シ右之旨申之
六日 晴
○ヤス、早朝ヨリ吉村清琴縁談荷物今日相送ルニ付、
右一見ニ同人方ヘ罷越ス、十二時前帰ル
八月七日 晴
○同夜、吉村清琴来ル、明日縁談先ヘ引越之旨、申之、
九日 晴
吉村清琴縁付先、大市方ヘ歓ニ罷越ス
八月廿九日 晴
朝吉村清琴来ル、箕面展覧会出品之件、
前年作梅林山水二尺五寸巾出品ニ付取リ帰リ、午後持参ス、
同夜佐野琴岳来ルニ付相渡ス、菓子到来、
九月十九日 曇
○午前、吉村清琴来ル、南宗画会寄附画持参ニ付、二枚預リ置
十月四日 雨
○午前、吉村清琴来ル、バナナ到来



市内(西区)

明田 月樵  (あけた げっしょう)
(一)
明治9年4月10日・森琴石妻「ゑい」葬儀時、「到来物控」に名あり

(二)
藤本鉄石先生薦場余録
(原田隆造編・辻本新太郎出版・明治12年)

書画幅展覧所蔵者に名あり

○魚屋八兵衛圖賛   小畫箋半截   明田氏
○大米夏山       小畫箋半切   明田月樵


(三)
名三平  住所 大阪市北区西九条 (明治30年・門弟名簿)


(四)森琴石日誌
明治四十二年八月廿一日   晴
○早朝、明田月樵来訪有之、果物到来

明治四十五年二月十六日   曇
○午前、明田月樵氏来訪有之、逸翁嬢聞合之件、

明治四十五年五月廿六日   晴
○朝、明田月樵氏来訪有之、過日預リ之画帖返却ス、果物到来、

大正元年九月廿一日 曇、午後小雨
○午後、明田月樵来訪有之、箕面展覧会出品画持参ニ付、預リ置、佐野ヘ為持遣し、相渡ス、



(五)「扶桑書画譜 6冊」(河副作十郎,大河原久編/清娯館/明治22年刊) より

「布引瀑泉図」・・・・4冊目の末尾に有ります
日本摩耶布引瀑泉 月樵
日本摩耶布引瀑泉 月樵

明田三瓶/名皐/字守仲/號月樵/大阪蘆分橋北九条村住



藤井 香舟 (ふじい こうしゅう)
(一)名信助 住所  大阪市西区京町堀北通三丁目 (明治30年・門弟名簿)


(二)明治9年4月10日・森琴石妻「ゑい」葬儀控,、身内の続きに名あり(森家の身内の可能性あり)

下記(三)、係累の中「藤井光栄」は、同葬儀控に、塾と書かれた文字の中の10人中に名あり


(三)著書及び発兌書肆

[1] 発兌書肆名

 森琴石著「墨場必携 増補題画詩集 4冊」(明治12年11月21日御届)

編纂者:森琴石(大阪市東區南本町四丁目三十八番地)
出版人:北村宗助(大阪市南區末吉橋通三丁目六番地)
仝   :吉住音吉(堺縣平民・南区心斎橋壱丁目七番地寄留)
発兌人:吉岡平助(大阪市東区備後町四丁目三十番地)

「題画詩集 四」表紙
「題画詩集」:森琴石 後跋文(右頁)
右頁、発兌書肆名:藤井新助
「題画詩集 四」表紙
「題画詩集」:森琴石 後跋文(右頁)
右頁、発兌書肆名:藤井新助

[2] 著者兼出版人

「浪華名所ひとり案内橋づくし」(明治17年12月17日)

編輯兼、出版:藤井新助・鎌田朝助
藤井新助:西区京町堀二丁目五十三番地
鎌田朝助:南区順慶町三丁目六番地


(四)係累
藤井光栄(藤井光栄堂)・藤井幸三郎=共に著出版に携わる


(五)メモ
藤井克三=「改正 大阪府管内地誌略図 全」 の出版人・山口県士族で大阪市に寄留
(石井三郎・明治11年・響泉堂刻

藤井市三郎(東京市牛込区市谷河田町8番地・昭和19年7月時点)=森家に氏名が存続した人物

◆「平成18年9月」に、藤井新助に関する記述があります。

福島 松石 (ふくしま しょうせき)
名真蔵 住所  大阪市西区南堀江上通一丁目 (明治30年・門弟名簿)


河井 雲石 (かわい うんせき)
名浅治郎 住所 大阪市西区九条 (明治30年・門弟名簿)




門人紹介一覧
地区(大阪府:市内府下三重・兵庫・奈良 中国九州・四国中部・北陸・東海

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