明治17(1884)年11月27日発行。
東洋絵画会叢誌部。
活版印刷、線装、24葉。 (うち3葉は木版印刷。)
縦19.6cm、横12.0cm。
これも、たった1冊だけの雑誌の端本で、前回の「花月新誌」よりほんの少し大きい(縦が2cmほど長い)が、やはり薄っぺらな小冊子である。
雑誌といっても、「花月新誌」のように一般読者を対象にしたものではなく、東洋絵画会という団体の月刊の機関誌である。
東洋絵画会がどういう団体であったのかを説明するには、まず竜池会という団体について説明する必要がある。
竜池会は、明治12(1879)年に成立した美術愛好家の団体である。 佐野常民や河瀬秀治、山高信離といった人たちが東京・上野の不忍池にある弁天社の境内に集まって、古書画の展示会を開いたのが、発端であるという。
これらの人々はいずれも明治政府の官僚であったが、維新後の極端な欧化政策の中で、わが国の伝統美術が衰微していく情況に危機意識をもっていたのであった。
また、国内で顧みられなくなった美術品が海外に大量流出した結果、欧州にはいわゆるジャポニズムの風潮が生まれたが、これら官僚は、この風潮を利用した美術工芸品の輸出、すなわち殖産興業に結びつけようという意図もあったようである。
こうした官僚らの意向は当然政府の施策に反映し、日本画(東洋画)の保護奨励を目的とした政府主催の絵画共進会(第1回・明治15年、第2回・明治17年)が開催されるに至った。
東洋絵画会は、竜池会からの呼びかけに応えて結成された、画家サイドの団体である。 竜池会と理念を同じくするが、技能向上や画家同士の情報交換・連携が活動内容であった。
画家サイドの団体とはいうものの、当時の画家の中にはこういう団体を統率・運営できる人材はいなかったらしく、会長には官僚の品川弥二郎(1843-1900. 当時は農商務大輔)が就任したほか、副会長・副幹事の役職も画家以外の人で占められていた。
明治20(1887)年、竜池会は拡大・改組され、日本美術協会が設立された。 このとき、東洋絵画会も、この日本美術協会に合流した。 したがって、「東洋絵画叢誌」が会の機関誌として発行されたのはこの2年あまりのことになるが、この雑誌そのものは日本美術協会によって継続発行されたようである。
「鳥羽僧正の意に倣ふ」 山名貫義 東京の人。 東京府水道端町一丁目七十一番地に住す。 | |
橋本雅芳 勝園と号す。東京の人。 東京府京橋区采女町二十一番地に住す。 | |
「横行自在」 滝 謙 和亭と号す。 東京府神田区駿河台東紅梅町十九番地に住す。 | |
「江村に奇を探って帰る」 河村応心 雨谷と号す。東京の人。 東京府下谷区仲徒士町四丁目廿壱番地に住す。 | |
岸竹堂 京都の人。 京都府上京区等持寺町に住す。 | |
河鍋洞郁 暁斎と号す。東京の人。 東京府本郷区湯島四丁目二十二番地に住す。 (落款には猩々暁斎とあり、猩は異体字。) |
終
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2003年11月 作成 小林 昭夫 |