森琴石(もりきんせき)1843~1921

森琴石 調査情報

平成10年10月~現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成23年(5月)

  今月の話題

【1】 門弟情報

堀内謙吉について
○緒方洪庵の外孫として誕生
○耳鼻咽喉科の名医として、中江兆民の咽頭がんを発見した事で有名
                         ↓
               中江兆民著『一年有半・続一年有半』に繋がる
○父堀内国利は脚気一掃に貢献した人物




【1】

平成20年10月【2】」でご紹介しましたが、大正7年12月1日、森琴石の喜寿を祝う記念品の贈呈が行われた。森琴石の門弟調査では、この喜寿祝賀記念品贈呈目録に、贈呈者として名を連ねている人物は、門弟とみなしている。それは琴石の孫が遺した「森 加津の日誌」の中、大正8年2月17日に「今日 来年祖父様の喜寿のお祝ひの相談で午後から門人等がくるのでその準備にいそがしかった」とあり、12月1日付けには「今日は来年祖父様の七十七の祝ひにお弟子さん達が祖父様の木像を下さるので朝からいそがしかった」 と記述されており、それら一連の文章内容に基づき門弟とみなした。


記念品贈呈者名の中に「堀内謙吉」という名がある。門弟調査の過程では、当初この「堀内謙吉」については、さほど注目しなかった。贈呈者氏名が、号名では無く本名で書かれていた所為もある。「氈受楽斎」の調査過程で、堀内家と氈受家が縁組をしていた事が分かった。しかしその時点でも「堀内謙吉」は、”氈受楽斎との縁があるから記念品贈呈者として加わったのであろう”位に考えていた。

しかし長年にわたる調査上での判断から、知り合いというだけで記念品贈呈者氏名に名をあげる事は出来なかったはずです。地方の人が来阪時に森琴石に指導を仰いだ人物や、短期間の見習い生は正式な門下として扱われていなかったようです。このたび「改発弥兵衛」のような<船場の旦那衆>的存在の門下生として、「堀内謙吉」を門人紹介に加える事にしました。


インターネットのWEBサイトで、今橋1丁目に開業する耳鼻咽喉科の医師「堀内謙吉」は、緒方洪庵の孫で中江兆民の食道がんを発見した・・・・との情報が沢山出てくる。門下「舩田舩岳」が遺した日誌には、頻繁に「堀内医院」に舩田舩岳が通っている記述がある。日誌には「堀内氏ニ耳ノ診察ヲ受リ」に始まり「堀内氏行」、「堀内氏訪」などと記述されている。上記WEBサイトの情報から、舩田舩岳が通院していたのは、堀内謙吉の病院だったと確信した。


平成23年2月【2】」では、西宮市の中山沃(そそぐ)氏からご提供頂いた資料や情報を元に、緒方洪庵の緒方家や名塩の紙問屋について触れましたが、その中、緒方拙斎の書斎が今橋3丁目にあり、同町内の近隣には、森琴石ゆかりの人物の宅地が集中しているとお伝えしました(同 注7に記述)
中山沃(そそぐ)氏ご提供の資料には「堀内謙吉」に関する記述や伝記があり、「堀内謙吉」が、緒方洪庵の外孫で、今橋1丁目に医院を開業する著名な耳鼻咽喉科の医師であった事を再確認した。


伝記によれば、「堀内謙吉」は、医師である父「堀内利国」の優れた遺伝子を継ぎ、幼少より学力、知力が突出していた。医師である父や自身の意志を成就するため、ドイツに留学、語学を習びつつ普通学を補い、フライブルグの医科大学に入学した。解剖学を志したが、父の容認を得られず耳鼻咽喉科を専攻した。同大学卒業後、更にウィーンの医科大学に入り耳鼻咽喉学の研鑽に励んだ。4年後、医学博士の学位を取得して卒業した。緒方正清、同銈次郎とはその同窓生だったという。イタリアを周遊した後大阪に帰り、今橋1丁目に耳鼻咽喉科病院を開業した。謙吉の医師としての手腕を伝え聞いた患者は引きも切らず、病院は大繁盛したそうだ。


「堀内謙吉」が名医とする謂れとして、中江兆民への”癌の告知”は夙に有名な話だ。「東洋のルソー」と評され、江戸後期から明治の思想家として著名な「中江兆民」に、咽頭癌を告知したのが「堀内謙吉」である。2006年10月、PHP研究所から出版された、坪内裕三著『近代日本文学の誕生:百年前の文壇を読む』の中には、【中江兆民、余命「一年有半」を宣告される】と題した一文で、その逸話が紹介されています。下にその概要を記述します。


★明治33年11月頃から、中江兆民は喉の痛みが激しく体調に不安を感じていた、当時の医師からは「普通の咽頭カタル」と診断されていたが、翌34年3月、喉から大量出血をみるなど自身の症状に危機を覚えた兆民は、早々に大阪に戻り、堀内謙吉の病院を訪れた。謙吉は仔細な検視をした後、兆民に切開手術を勧めた。これにより余命が少ないと確信した兆民は、残り少ない人生を有効に生きたいと、謙吉に寿命を尋ねた。兆民の問いかけに、謙吉は「1年半、養生が良ければ2年」と答えたという。自身の余命は、せいぜい5、6ヶ月くらいと思っていた兆民は、この思いがけない”長い余命の宣託”を大いに喜び執筆に集中した。「生命の遺稿」というサブタイトルを持つ『一年有半』という小説を、7月4日より2ヶ月間で書き上げた。同年9月、博文館から出版され空前のベストセラーとなり、発売1年で20万部以上売れたそうだ。続編『続 一年有半』を刊行した2ヵ月後の12月13日逝去した。

明治30年11月、日本美術協会に提出した「森琴石門人録」には、舩田舩岳以下41名の門人名が記されている。明治30年といえば、堀内謙吉がドイツへの医学留学を終え、大阪で開業してからまだ年月の浅い頃である。余暇に文人画を嗜むようになったのは、帰朝後年月が経ち、少し落ち着いた頃と思われる。明治30年の「門人録」に記名がある者のうち、喜寿祝賀記念品贈呈者にも名を留めているのは少数である。多くは物故者となったのだろう。


喜寿祝賀記念品贈呈者の大半は、森琴石門下では実力のある画家として活躍していた。「堀内謙吉」は、「氈受楽斎」や「開発弥兵衛」などと同様、地域の実力者で、趣味で画を嗜む富裕なパトロン的存在だったようだ。


「堀内謙吉」の父「堀内利国」も歴史に残る業績を残している。「堀内利国」は、大阪鎮台の陸軍軍医監時代、当時軍隊で蔓延していた脚気が、栄養の偏りが原因であると見抜き、<麦飯>を試してみたところ、脚気患者が激減したという。脚気一掃に貢献した人物として国際的にも名が知られている。脚気撲滅の実話を取上げた文献資料が沢山残されている。明治28年、軍医部長の栄職にある中、53歳の若さで亡くなった。真田山陸軍墓地の将校ゾーンに埋葬された。藤沢南岳撰文、大村屯(楊城)書による石碑が残されている。「堀内謙吉」と森琴石の関係は、謙吉の父「堀内利国」との関わりが先にあったようだ。


★堀内利国略歴=丹後舞鶴藩士の家に生れる。若い頃京都に出、新宮涼閣に漢方医学を学ぶ。長崎に行き蘭学を習得する。その後大阪に来て当時来日中のオランダ人医師、ボードインやエルメレンスから西洋医学の真髄を学んだ。蘭人ブッケーマンが来阪時には通訳として貢献した。大阪鈴木町に病院が開設されるや、招かれて医員となったが、明治3年、陸軍軍事病院を開いた時、緒方惟準と共に創設に参画して陸軍軍医制の創設に尽力した。明治17年、当時脚気は「細菌感染症」とする当時の軍医の上層部の見解を無死して、<麦飯>による脚気の治療に功績を挙げた。訳書に『原病各論』(華烏蘇格著/堀内利国訳/日盛社/明8)、『袖珍外科消毒説』   (ポール・トロワホンテン著/,堀内利国訳/松村九兵衛/明21)など

軍医監堀内利国について」、「門人:堀内謙吉(一)(二)」など参照

明治30年、日本美術協会に提出した門人名簿には、住所と氏名しか分からない門下生が多い。喜寿祝賀記念品贈呈者氏名にも、まだ経歴人物像が知られていない人物がある。これまでの調査から判断すると、未だ知られていない門下生には、かなりの大物や個性的な人物が存在していたと思われる。喜寿祝賀記念品贈呈者に名が出る「河口渓石」は、最近岡山市の個人サイトから、型破りな行動をしていた一文が記述されている。インターネットでの情報公開が急速に進む昨今、実態が明らかになる門下生が増えてきそうだ。



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