森琴石(もりきんせき)1843~1921
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森琴石 調査情報

平成10年10月~現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成23年(3月)

  今月の話題

 『森琴石作品集』出版 その後

【1】 メディアでの取り扱い記事=先月度より後のもの
★掲載誌=毎日新聞・芸術新潮3月号・月刊美術3月号・産経新聞・ザ 淀川
【2】 森琴石の交流者
鳥居断三・・・森琴石日誌に名が出る=『岐阜県郷土偉人伝』
【3】 森琴石と志賀直哉・九里四郎=『志賀直哉全集 第7巻』
【1】

先月度に記述しましたが、『森琴石作品集』出版後、先月度のご紹介した以後のものに、毎日新聞、芸術新潮、月刊美術などに紹介して頂きました。作品集の概要についてや書評が掲載されています。[森琴石の南画は、文人画家としての実力を示して余りあるが、それ以上に銅版画作品の技量には驚く・・・・・」と、いずれにも同様の評価をされている。


★毎日新聞=「忘れられた大坂画壇に光」というタイトルで、『森琴石作品集』刊行の経緯と森琴石の紹介があり、作品では「温雅な文人画も魅力的だが、響泉堂の名で、銅版画工房の主としての精力的な活動振りと、作品類の多彩さ」を称え、大阪では、幕末から近代にかけての文人画家の業績をまとめたものが、この『森琴石作品集』が初めてという事、「(刊行の)快挙の向こうに大阪の文化力の衰えが透けて見える」と締めくくられている。(2月28日、夕刊第二面:-田原由紀雄の 心のかたち-)
★美術新潮=「文人もすなる近代メディア」と題して、「文人らしく七絃琴もよくした琴石の、その種の作品が多数収録されている。それはそれで文人画家としての実力を示して余りあるが、面白いのは明治10年代前後に、当時バリバリのニューメディアだった銅版画に手がけている事。・・・・・・・・・・・・文人画の高邁な世界と世俗的銅版画の取り合わせが琴線に触れました」とあり、作品集の外観と、銅版画の見開き頁の写真を添えている。(3月号/134,5:頁/invitation)
★月刊美術=2011年3月号紹介の「気になる本」に掲載。「南画をはじめ銅版による風景画や挿絵、各種デザインなどの画業を網羅。・・・・・・・・・・・その多彩な画業は見直されて良い」(3月号/188頁/アートフブックス・書評)
★産経新聞=2/11~3/27まで開催の「「煌めく和様の美」展 知られざる神戸の日本画」と題し、村上華岳、大橋翠石、福田眉仙、昇外義(のぼりがいぎ)・大橋良三について触れ、最後「有馬(現・神戸市北区)で生まれ、大阪で文人画家、銅版画家として活躍した森琴石(きんせき)は最近、再評価が進む」(3/4 【アートスコープ】 記事=坂下芳樹氏 )
★その他=地域情報誌「ザ・淀川 3月号」=「近代激動期を生きた 文人画家・銅版画師の画業にスポット」と題し、地域史研究者の三善貞司氏より「「写生・下絵・画稿・版下」などを眺めても、森琴石がいかに対象を熟視し、「物我一如」をめざして美意識の世界に沈潜していったかがよく分かります。特にエッチングは、雄渾な書と東洋的鷹揚な文人画家の森琴石が、このような仕事をしていたとは驚きです。」というコメントを添えて頂いています。

【2】
森琴石とゆかりの深い岐阜県から「鳥居断三 とりいだんぞう」と言う、新たな森琴石の交流者が判明。

「鳥居断三」に関しての資料は、”森琴石の日誌 明治42年8月17日付”には「美濃大垣鳥居断三氏」の9文字が残る。「平成21年6月【2】注2 -来住藤吉 記載ヵ所-○3番目」にあり)
インターネットからは、鳥居断三が明治初年、三河県の最後の知事だった事、維新後の明治4年には柏崎県(現新潟)の知事に任命された事や、司直に身を置く人物という情報が出ている。

昨年の11月、この「鳥居断三」と森琴石が”会心の友”だったという情報を知り、岐阜県土岐市の黒田正直氏よりその根拠となる『岐阜県郷土偉人伝』での「鳥居断三」の伝記を取り寄せて頂きました。

「鳥居断三」は幕末時、藩の家老「小原鉄心」に働きかけ、藩論を勤皇帰一に貢献した。大垣藩軍事副総裁となり、つぎつぎと功績を果し、明治元年12月には三河県知事となった。明治2年6月、三河県廃止に伴い、大垣藩文武両学校の総督や衆議院議員などの重職を次々と歴任していき、明治4年3月には、小原迪(鉄心の養子、小原適の事)と海外視察に赴いた。同年12月に帰朝後は、柏崎県知事を経て陸軍省判事、大審院、裁判所長・控訴院評定官など法曹界で敏腕振りを発揮した。人柄は高潔で、公明正大、厳穀方正で有りながら、人情家だったという。明治26年3月、職を辞してからは、茶道や音曲、乗馬などをして悠々自適に暮らした。
★「雅友知友;鳥居断三」をご覧ください
★「小原鉄心」との関係は、当HPでは「木蘇大夢木蘇岐山」父子が存在する。

『岐阜県郷土偉人伝』の締めくくりは、「夙に漢学に通じ詩文の素養深く、晩年は特に詩画を楽しみ風月を楽しんだ。大阪の南画家森琴石の如きは会心の友であったという」という文章で結ばれている。

『岐阜県郷土偉人伝』は、昭和2年に出版された。断三が歿して16年後、森琴石の歿後6年を経てからの刊行である。余生を風流を嗜む友として、「森琴石」の名がただ一人記述されていると言う事は、「鳥居断三」と「森琴石」は、周囲の誰もが知る”無二の親友だった”のであろう。

森琴石の周辺には、「馬渡俊猷 まわたり しゅんゆう」や「片桐楠斎」、「水越耕南」など、法律関係の仕事をした人物がいるが、「鳥居断三」が一番の出世頭だったようだ。森琴石は、明治9年11月「大日本府県裁判 管轄一覧図」を銅版で作成している。森琴石への同地図を依頼したのは、この「鳥居断三」の周辺かも知れない。

海外のサイトから、高橋由一ばりの画風で、紙に水彩で描いた「富士山を背景にした馬上の人物の絵」が、売りに出ている。サインが「K・Mori」とある事から、これを森琴石の作品と断定している。以前は”有り得ない”と一蹴していたが、「鳥居断三」が乗馬を好んだ事や、三河県との関わりを考えると、もしかすると”有りえる”かも知れない。



【3】
岩波書店が昭和49年に刊行した『志賀直哉全集 第8巻』に、志賀直哉が昭和18年に書いた「九里四郎水墨画会 推薦」という随筆が収録されている。この中に森琴石を書いた箇所がある。随筆によれば、九里四郎と志賀直哉との付き合いは、34年前にさかのぼる。「九里四郎」は、東京美術学校西洋学科卒の洋画家であるが、日本画も良く描いた。洋画家でありながら日本画を描いた画家としては早い方だったという。九里四郎は、「久しぶりに日本画の会を開くつもりでいる、こつこつ描いてみるつもりだ・・・」と言ったそうだ。志賀直哉は、下記のようにこの後を綴っている。

  「・・・・この言葉から私は不図、森琴石風の絵が出来るのではないかと思った。三十年前、九里は鉄斎に感服する一方、大阪の老南画家森琴石に親みを持ち、ある時自ら訪ねて籣を描くところを見せて貰ひ、その絵を貰って来た事がある。それを知ってゐるからである・・・・・」


  志賀直哉は、この後「琴石は鉄斎のように有名にはならなかったが、俗気のない、好意の持てる画家である。只、穏やか過ぎて、人を惹きつける所が少ない。・・・・・・・・・・こういう事まで九里には一層気にいるのではないかと思われる。」と、森琴石の人柄と九里四郎の気持ちを読んでいる。

「九里四郎」は、大阪窯業社長「磯野良吉」の娘と結婚し、大正3,4年には大阪に住み、下阪中の里見惇の世話をしたという。磯野良吉は、漢詩人「磯野秋渚」の親戚に当たる。磯野秋渚は大阪で活躍した漢詩家で、当HPでは「石橋雲来」・「大村楊城」らとの関係が深く見られる。

 
★大正3年といえば、その前年には森琴石は、大阪から初めて(第7回)文展審査員に推挙された。その推挙に対し、若手新日本画家の組織「つくし会」・「大正会」が反対したという。「平成19年2月【1】注2」では、森琴石は、審査員を引き受けるに際しかなり悩んだ様子がの文書が残っている。
★文展が開催される前、「絵画叢誌 記事(一)〔絵画叢誌 第三百十四巻〕」にあるように、他の審査員連中が、審査員出展枠を利用し、自作の屏風を一人で幾つも出品する姿勢を『絵画叢誌』で批判した。
当時の森琴石は、新日本画旋風が巻き起こる中にあり、苦渋の日々だったようだ。当時の模様は「平成20年2月【2】注2注3」,[平成21年4月【2】■5番目 近藤翠石宛の書簡」でも記述している。
★森琴石の周辺でも不穏な動きがあった。寺西易堂は死亡したと噂を流され、石橋雲来は、自詩を盗作される(知友:木村 發(三)木村發跋文)などの不快な事があり、大阪を離れ明石の江井ヶ島に移り住んだ。気骨のある文人気質の老人たちは、煙たい存在となった。

「九里四郎水墨画会推薦」を書いたのは、昭和18年(1943)という事から、その30年前は大正2年(1913)となる。「九里四郎」が森琴石の元を訪れたのは、森琴石が文展の審査員を引き受けた頃のようだ。身近に森琴石の苦悩や、大阪の画家達やその周辺の言動を見ていた可能性がある。或いは身内やその周辺からも、さまざまな情報を得ていたと思われる。

 
九里四郎について
*昭和28年3月1日長野県飯田市飯田病院で胸部疾患のため死去した。享年67歳。明治19年東京に生れ、学習院から明治43年東京美術学校西洋画科を卒業した。池部鈞、藤田嗣治、近藤浩一路等と同級で明治44年欧州に留学した。在学中すでに明治40年の第1回文展に「霧の榛名野」が初入選となり、同41年の第2回文展には「蔵」が入選、3等賞となり、43年第4回文展の「老人」も3等賞となつた。然し帰朝後は官展風の自然描写を棄て、強い主観的表現をとる様になり、文展内に於ける二科制設置運動に加わつたが当局に容れられず、官展を離れた。大正3年二科会創立に際してその鑑賞委員に選ばれたが辞退し、第4回展に「庭」「静物」他4点を出品した。その後も二科会に出品していたが、のち料理屋を経営したり、風物を描きながら生涯を送つた。(物故記事(上から3番目)より転載)
 
補足
*九里四郎は、1923年関東大震災で妻と娘を亡くした。後、奈良に移住し志賀直哉を奈良に住むことを勧めた。
*志賀直哉が「九里四郎水墨画会 推薦」の随筆を書いた翌年(1944年)、長男正が亡くなった。
傷心した九里は長野県飯田市に疎開した。

森琴石が温和な性格で清廉潔白な事、無欲で俗気が無い”高邁な文人だった”事は、さまざまな文献で記述しているが、「鳥居断三」の人柄や、「志賀直哉」の随筆からも、更に森琴石の人物像を確実に知る事が出来る。
「九里四郎」が森琴石の元を訪問した事は、唐突な事では無く、森家や周辺の人物との関係があったように思われる。下に当HPに以前に記述していたものと合わせて、関係図で示してみました。
 

 
当HP記述過所
柳猶悦・柳宗悦・嘉納家=「平成19年12月【2】 『寰瀛記(かんえいき) 小説 柳 楢悦』 ※柳 楢悦(やなぎ ならよし)氏に着目する理由
柳一族と思われる人物=「平成18年5月【4】注3
逍遥游吟社=「平成17年8月■5番目以下」・「雅友知友:大村楊城
入江俊次郎=森琴石長男「雄二(雄次)」の妻「梅子」の父⇒「平成17年2月■3番目」・「平成22年8月【2】」他


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