森琴石(もりきんせき)1843~1921

森琴石 調査情報

平成10年10月~現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成23年(2月)

  今月の話題

 『森琴石作品集』出版 その後

【1】 メディアでの取り扱い記事
★掲載誌=神戸新聞・読売新聞・産経新聞
【2】 読者からの情報ご提供
西宮市「中山 沃 (なかやま そそぐ)」氏より
★森琴石作品所蔵
★資料ご提供   1:緒方拙斎著「南湫詩稿 第2集」の森琴石の挿画
            2:名塩の名士「藤田源三郎」について(森琴石の控え帖に名がある人物)
            3:堀内謙吉について
【1】

昨年暮れに出版された『森琴石作品集』は、少しずつ反響を呼び、メディアに紹介され始めている。1月には神戸新聞、2月は22日時点迄に、神戸新聞、読売新聞及び産経新聞に記事が掲載されました。記事の内容は、作品集の内容や出版に至る経緯、或いは品集の中から銅版画を扱ったものでした。特に銅版作品は、「森琴石の絵は画面に入り込んでしまいそうなほど精緻でミクロコスモス的な魅力がある」と、その高度な技術が激賞されている。


★神戸新聞=見出しは「有馬出身 明治に南画、銅版画で活躍・森琴石の作品集出版 ひ孫の森さん夫婦12年かけ 全国訪ね歩き 人柄にも迫る」。(地域 朝刊 1/14三田版、丹波版 2/9神戸市北区版 記事=松本寿美子氏)
★読売新聞=『森琴石作品集』の紹介と、作品集の中から、特に印象的であるとする「月ヶ瀬真景図」に触れ、「当時は芸術作品と見なされない印刷物に力を注ぎ、極めることで、絵画の可能性を広げられないかと模索した画家の姿を、見事に浮き彫りにした」と評されている。(2/16 夕刊 文化面:間奏曲/記事=木村未来氏)
★産経新聞=見出しは―森琴石「高麗橋之図」 黒光りする細見の鉄橋、精緻に表現―
『森琴石作品集』の中から「高麗橋之図」を取上げ、「小さな画面に、黒光りするような細身の鉄橋、すらりとしたガス灯の陰影まで見事に表現されている」と始まり、高度成長期に建設された高速道路により、その存在感を無くした現在の姿を憂い、もしこの高速道路がなかったならば・・・・・、そして、水辺の情緒を取り戻そうとする活動が大阪で始まっている、等の問題提起をしている。最後「琴石が描いた帽子の紳士のように、いつか欄干から川面や景色を楽しむ日がやってくるかもしれない」と、未来の”大阪の川の姿”に期待を寄せている。(2/19 夕刊社会面:シリーズ「舞台はここに/記事=丸橋茂幸氏」

【2】
『森琴石作品集』の読者、西宮市名塩(なじお)、教行寺の「中山 沃(そそぐ)」氏より、東方出版を通じて書簡を頂戴しました。中には、森琴石が大正3年春、端正に描いた「蘭竹石図」の写真と、森琴石が挿画をした資料を添えて送って頂きました。内容を下●に記述します。

●身内に森琴石の作品があり、所蔵者の身内からは、かねてより森琴石の事を調べて欲しいと依頼されていた。それもあり、以前より森琴石に興味を持っていた。インターネットをされない同氏は、図書館で得る文献からしか森琴石の情報を得る事は出来なかった。『森琴石作品集』で初めて森琴石の概要を知った。
●中山家の資料の中、緒方拙斎著「南湫詩稿 第2集」(上下2巻/和装本/明治37年刊)中で、森琴石が<庵>の挿画をしている。その挿画は、緒方洪庵の嗣子「緒方惟準」の有馬の別荘と酷似している事から、惟準の有馬の別荘「翠紅庵」と思われる・・・・・・など。

緒方拙斎、惟準については、注1で簡単に解説しています。「南湫詩稿」での森琴石の挿画は注2をご覧下さい。



名塩は「緒方洪庵 注3」の妻となった「億川八重」の生地である事から、適塾や緒方家との繋がりが深い。それは、八重の父「億川百記」と「緒方洪庵」が、大坂の蘭方医「中天遊」の門下生で、百記は洪庵の兄弟子だったことによる。名塩の医師である「億川百記」は、当時製薬販売業を手広く商っていた。そこで洪庵と知り合った百記は、洪庵の人柄に惹かれ、洪庵を支援し、遂には中天遊の口添えを得て、娘八重と洪庵を婚約させた。この縁により、名塩の名士「藤田源三郎・藤田源二郎・弓場五郎兵衛・木村新左右衛門・馬場義三郎」らが、緒方洪庵の長崎遊学の資金援助をしたという。支援者はいずれも名塩の紙漉屋を営んでいた。 注4



森琴石の資料の中に、明治8,9年頃の控え帖がある。その中には名塩に関する記述が2箇所ある 注5。1つは北浜に住む名塩の紙問屋「木村甚九郎」の氏名があり、2つ目は、有馬郡名塩の「藤田源三郎」である。藤田源三郎の名は、当HP「平成16年7月■1番目 C:その他」で記述している。 上記■注4により、藤田源三郎は緒方洪庵の支援者だった事が判明。名塩市史によれば、藤田家は江戸時代からの古い紙漉屋で、名塩における屈指の旧家であった。当主はいずれも源太を名乗って代々、名塩の庄屋を勤め、寛文年間には真宗源照寺を開き、安永年間には「塩溪風土記」を書いた源左衛門を出している。源三郎は、明治32年から同38年にかけて塩瀬村長をしていた。名塩史の資料編には多くの紙漉屋文書が掲載されているが、殆どの文書に「藤田源左衛門・源太・源三郎」の名がみられるという。 注6


「木村甚九郎」については不明であるが、名塩には「木村新左衛門」といい、通称「木屋新 キヤシン」という上級紙漉の家柄の人物がいた。適塾塾頭を勤めた「伊藤慎蔵」は、洪庵の妻八重の世話で、新左衛門の娘と結婚したが、妻が病を患ったので、空気の良い名塩に移り住み、幕末から明治初年までの7年間、名塩で蘭学塾を開いた。木村甚九郎は、この木村家の一統と思われる。(下の★ともども、中山沃氏による)

★江戸時代から明治時代にかけて、大阪には名塩屋を名乗る紙屋、薬屋が3,4軒あったようだ。一人は名塩屋熊太郎といい、洪庵夫人八重の実家、億川氏の手代で、洪庵の適塾の土地の名義人となり、過書町で八重の父百記の藥を売っていた。この広告が「教行寺」の襖の下張りに使用されており、現在同寺に保存されている。億川家の藥の版木が残っており、西宮市郷土資料館に寄贈されているそうです。(中山 沃氏による)


文人画家森琴石は、画材として不可欠な「紙・墨・顔料(絵の具)」には、特別なこだわりがあったはずである。名塩の和紙は地元産の凝灰石の微粒子(ベッドナイト)を混ぜて漉く事により、虫害・変色に強い、燃えにくいなどの特徴があるという。森琴石のこの明治8、9年頃の控え帖は、森琴石に、書物や地図などの出版を依頼した書肆の名前が多く、丈夫で長持ちする名塩の和紙を、書物用に使用した可能性がある。


当HPでは、「平成21年4月【2】」や「平成22年6月【1】■2番目」など、森琴石が備中岡山とは非常に縁が深く、知己が多かった事、「平成19年7月【1】」では緒方洪庵と廣瀬旭荘が親友であった事、「平成18年5月【4】注3 ◆2ツ目」では、森家の安政時代の控え帖に「医師御礼 緒方様」の記述がある事等、かねてより森琴石やその周辺には緒方家との繋がりがある事を記述してきました。上記により、更にその親密度を知る事が出来る。

当HP内 Google検索機能にて、「緒方洪庵、緒方家、森家と岡山」 などの文字でご検索下さい


情報提供者の教行寺の「中山 沃」氏は、数年前から「緒方惟準」の伝記を執筆中との事で、その資料検索中に「南湫詩稿 第2集」で、森琴石の挿画を見つけられたそうです。第1集には、森琴石とは同門の「川上泊堂(高木退蔵門下)」が、拙斎の大阪市今橋3丁目の書斎「孤松庵」の図を描いているそうだ。中山氏は岡山出身の医学者をテーマに、著述活動をされておられるようです。この度の中山氏からのご情報は、森琴石と岡山の縁が更に深まる”不思議な縁” を感じました。
★教行寺は、名塩御坊ともよばれる大寺で、浄土真宗本願寺派の中興の祖と仰がれる蓮如上人によって創建されたという由緒をもつ寺である。浄土真宗を広める為、北陸から河内への旅の途中、名塩の村民に招かれて、中山の寺庵に滞在し、やがて、この地に教行寺を開く。名塩は、江戸時代の初めから紙漉きが盛んで、教行寺には、それを物語る貴重な文書が数多く伝えられているという。
★森琴石や川上泊堂など「高木退蔵」の門下には、備中建部に住み、後明治天皇の侍医頭となった「岡玄卿」がいる。
★今橋には森琴石のパトロンだったと思われる「堀内謙吉」が耳鼻咽喉病院を開院、近隣には謙吉の身内で森琴石門下「氈受楽斎」が住み、森家の縁者だったとされる「岩本栄之介」の所有住居があった 注7

平成20年10月【2】注2」に、森琴石喜寿祝賀 記念品贈呈者氏名」に名がある「堀内謙吉」は、森琴石のパトロン的存在だったと思われる。門下「舩田舩岳」が通院した耳鼻咽喉の医師として当HPで記述したが、特記する経歴の人物であるようだ。堀内謙吉と緒方家の関係は、謙吉の父「堀内利国」と、緒方洪庵の五女「九重」との間に生まれたのが謙吉で、謙吉は緒方洪庵の孫に当たるが、後に両親は離婚したという。堀内謙吉の経歴は、後月ご紹介したいと思います。


◆西宮市名塩の歴史や紙漉、教行寺などについては【有馬郡風土記 名塩 歴史・史跡】 をご覧ください


注1緒方拙斎(おがた せっさい)

1834-1911
幕末-明治時代の医師。
天保(てんぽう)5年2月16日生まれ。漢学を広瀬淡窓に,蘭学を青木周弼(しゅうすけ),緒方洪庵にまなぶ。
のち洪庵の養子となり適々斎塾をつぐ。
緒方惟準(これよし)らと明治20年緒方病院,22年大阪慈恵病院を設立した。明治44年12月15日死去。78歳。豊前(ぶぜん)小倉(福岡県)出身。
本姓は西。名は羽。字(あざな)は子義。別号に南湫,孤松軒。(by コトバンク)

  緒方惟準(おがた これよし))

1843-1909
明治時代の医師。
天保(てんぽう)14年8月1日生まれ。緒方洪庵の次男。長崎の蘭医にまなび,西洋医学所の教授となる。
慶応2年オランダに留学,大阪医学校長,陸軍軍医などをつとめたのち,大阪に緒方病院を開業した。
明治42年7月20日死去。67歳。
大坂出身。字(あざな)は子縄。通称は洪斎。号は蘭洲。


 

注2緒方拙斎著「南湫詩稿 第2集」 森琴石挿画

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注3緒方洪庵(おがた こうあん)

★幕末の蘭学者・蘭医・教育者。備中足守藩士佐伯惟因の三男。
★名は章、字は公裁、通称は三平、別号に適々斎等。
★1825年、15歳の時、父が大阪足守藩蔵屋敷留守居役に命じられたため大阪へ行く。 翌1826年、中天遊(物理学者・天文学者でもある)の蘭学塾に入る。
★さらに江戸の坪井信道・宇田川椿斎にも学ぶ。のち長崎に遊学し、1838年、大坂瓦町に適々斎塾を開き、医業の傍ら蘭学を教えた。大村益次郎、橋本佐内、大鳥圭介、佐野常民、福沢諭吉ら多くの逸材を育成する。
★文久2(1862)年6月、兼ねてからの幕府の奥医師就任の依頼を受諾し、8月江戸に行き、8月21日幕府奥医師に任じられた。閏8月4日西洋医学所頭取兼帯、12月法眼に叙せられた。
★文久3(1863)年、大坂より家族を江戸に呼び寄せて間もない6月、突然の大喀血をし、下谷御徒町医学所頭取屋敷で急死した。54歳。 (by 「平成19年7月【1】注2」を転載)

 

注4・6出典資料

「緒方洪庵・福沢諭吉と名塩の地(西宮市)」(長濃丈夫箸/名塩自治会/1961)
「名塩史」(財団法人会編1/西宮市名塩財産区/1990年)
 

注5~森琴石「控え帖」~ より

「緒方洪庵・福沢諭吉と名塩の地(西宮市)」(長濃丈夫箸/名塩自治会/1961)
「名塩史」(財団法人会編1/西宮市名塩財産区/1990年)

第4頁 左側:木村甚九郎


北濱内通リ浪花橋西ヨリ入
 南側 木村陣九郎
   名塩問屋

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第6頁 右側:藤田源三郎


有馬郡
 名塩
   藤田 源三郎様

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  注7森琴石とゆかりのある人物が住む -大阪市東区今橋3丁目-

~大阪市地籍地図~より
(画像は、門弟紹介-大阪府府下:泉州・河内「氈受楽斎 六 氈受家に関する資料」と同じ画像を使用しています)

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★今橋3丁目、緒方拙斎の書斎=中ほどにある”岩本栄之介”の宅地より4軒右
 岩本栄之介の左隣家は”鴻池善右衛門”の名
★緒方拙斎の右隣は樋口三郎兵衛、その右5軒先には氈受楽斎(小八郎)の宅地
★緒方拙斎の左隣は緒方正斎の名
★堀内謙吉が開業した病院は今橋一丁目
★下段の氏名は宅地の所有者であるが、他者に貸している場合が多いという


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