森琴石(もりきんせき)1843~1921

森琴石 調査情報

平成10年10月~現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成22年(9月)

  今月の話題

森琴石の周辺人物について 小情報をお伝えします



【1】

「高木展為」…門生に歌人「与謝野鉄幹」がいた



★当HP<雅友・知友>の「高木展為」は、号を秋水と言い、堺で漢学塾を開いていた。門生の中には河野鉄南、与謝野寛(後の鉄幹)がいた。与謝野寛は明治16年、秋水から「澄軒」の号を授かった。漢詩集「海内詩楳」第30集から134集までの中に52篇の漢詩を発表している。(by 逸見久美著『評伝与謝野寬晶子: 明治篇 』)
★日柳政愬編「海内詩楳第81集」には、森琴石の「梅図」挿し画が掲載されている。⇒「平成20年2月【1】注2※2番目
河野鉄南=1874-1940明治-昭和時代前期の歌人。堺市の浄土真宗本願寺派覚応寺住職。幼友達の与謝野鉄幹に同郷の鳳晶子(後の与謝野晶子)を紹介した。「よしあし草」や初期「明星」に歌を発表,新派歌人として注目された。昭和15年11月26日死去。67歳。本名は通該。(by コトバンク)


【2】

「巨勢小石」…島根県美保関「福間館」の揮毫依頼控には「森琴石」の次頁に名あり

★「巨勢小石」は、「平成21年8月【1】注1」でご紹介した、森琴石編「名家画帖」の揮毫者の一人である。森「平成15年10月」で記述しましたが、森琴石は、明治17年2月、島根県美保関の老舗旅館「福間館」で2隻屏風「欄竹図」を揮毫した。
★「福間館」に現存する”揮毫依頼帖”には、当時の主人「福間専一」氏が、大正3年4月8日に森琴石と巨勢に揮毫を依頼していた記述がある。森琴石の作品は、翌大正4年1月19日に届けられた。森琴石の書き留便の包みや、葉書の送り状などが残されている。巨勢小石の作品はは、森琴石より10カ月後の大正4年11月20日に到着した。巨勢小石への依頼は、恐らく森琴石との縁によるものでは無いかと思われる。
★「福間館」には、(1)で記述の与謝野晶子・鉄幹夫妻が昭和5年に訪れ逗留している。叉「平成22年7月【2】注5 栗田石癖伝 栗田二三(紗羊)補足」」に記述の「栗田二三」の俳句の師匠「河東碧梧堂」も同館を訪れている。
河東碧梧堂=(1873-1937) 俳人。愛媛県生まれ。本名、秉五郎(へいごろう)。正岡子規門の高弟。高浜虚子と対立、定型・季語を離れた新傾向俳句を提唱。全国行脚して「三千里」「続三千里」をまとめた。のち自由律、ルビつき句など句風は変遷した。著「新傾向句集」「碧梧桐句集」「子規言行録」など。(by 現代俳句人名事典 weblio 辞書)
:河東碧梧堂は高浜虚子と対立したというが、誰も彼もが訪れるという分けでも無い地域に、両者が訪れていた事に注目。対立前の訪問か?


 

福間館 「揮毫依頼控  亦楽道人専一蔵」


ご協力者=福間隆氏(島根県美保関「福間館」経営)



右頁=森琴石
左頁=巨勢小石



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揮毫控の作品は現存じないという




森琴石 送り状葉書

 

森琴石 書き留便

大正4年1月18日付消印

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【3】

「松本幹一」…「舩田舩岳の日誌」に登載/大阪美術協会奨励会会員=朝日新聞社員

★当HP、資料:舩田舩岳の日誌、明治36年3月27日分には「午前 松本幹一氏ヲ築地ノ寓二訪」との記述がある。
★”大阪美術協会奨励会”会員であった
★大阪朝日新聞社時代、明治23年、東京朝日新聞社がアメリカ製の輪転機を導入。それは、帝国議会議の模様を官報より詳細に早く伝える為であった。東京朝日新聞で刷りあがったものは、翌朝6時新橋発の列車に積込み、夜11時20分に京都に着く。この列車は京都止まりであるため、特に鉄道庁に談判して臨時列車を仕立てさせて大阪に運び、大阪朝日新聞で作った翌日の朝刊と一緒に配達するという計画を、大原象吉と松本幹一が担当した。(by 兵庫県三田市ゆりのき台自治会ホームページ)
:当HPでは、三田藩の出身者には、東京美術学校第5期生の天岡均一がいる。  ⇒ 雅友知友「天岡均一
★「桂太郎関係文書(所蔵分) 明治44年7月25日 の”後藤新平書翰 ”」には「前文略・・・・東京電鉄問題
電車局長松本幹一ニ決定・・・・後文略」とある事から、明治44年頃は電車局長だったと見られるが、電車局長という役職についての情報は不明。



【4】

「久松定憲」…響泉堂刻書誌の編者/久松家は”大阪城代玉造口定番組与力”=朝日新聞社員

★雅友知友:「吉岡平助(三)」にある、響泉堂刻書誌『頭書図彙 皇朝史略字引大全 3冊』(明治12年)、の編者「久松定憲」は、『大阪朝日新聞社員等署名帳.[1-2] / 好尚 編』に名があり、[1]の中ほど33番目の画像に氏の出生についてごく僅かな記載がある。社員署名帳は明治37、38年に署名されたもの。
★社員署名帳によれば、「久松馬之丞 菅原定憲。宗旨禅宗。大阪玉造六軒屋敷にて嘉永6年9月14日に生まれ、幕府時代公儀についた」とある。久松家は大塩平八郎事件当時”大坂城玉造口定番組与力”の身分だったようだ。 ⇒WEBページ 大塩の乱資料館:村上義光・島野 三千穂 「玉 造 口 付 与 力 久 松 氏 と 大 塩 事 件」に、久松家の文書など歴史的な事が掲載されている。「史料紹介・大坂城玉造口定番組与力久松家文書」.その10には、久松馬之丞の名前が出る。
★久松定憲は菅原家から久松馬之丞の養子となった可能性がある。
●早稲田大学図書館古典籍総合データベース『大阪朝日新聞社員等署名帳.[1-2] / 好尚 編』の人物には、当HPに記述のある者として 関新吾.・渡邉勝(霞亭).・磯野於兎介(秋清).・内藤虎次郎(湖南)などがおり、大阪朝日新聞の絵画担当で、大阪近代絵画の基礎を築いた山内愚僊・赤松麟作や富岡鉄斎の長男「富岡健三」など多彩な顔触れで、署名の内容は非常に個性的である。
当HP内記述か所
関新吾=日本美術協会大阪支部が、泉布観で開催した「千瓢会」への瓢箪出品者=「平成17年9月【2】注4 大阪府末尾
渡邉霞亭(勝)=「平成18年5月【4】注2」・「平成20年10月【2】注6★4つ目
磯野於菟介(秋清・秋渚)=「雅友知友:大村楊城」交流者・「平成17年9月【1】注5」・「平成19年5月【1】■4番目」・「雅友知友:天岡均一●4番目
内藤虎次郎(湖南)=森琴石遺墨帖の題字揮毫者=「森琴石紹介:文献抜粋(七)」・「平成17年4月◆ 騎鶴楼来訪者と森琴石
●『大阪朝日新聞社員等署名帳.[1-2] 、編者の木崎愛吉は、明治-昭和時代前期の新聞記者,歴史家。慶応元年11月21日生まれ。明治26年大阪朝日新聞社に入社。大正3年に退社して金石文研究に専念し,編著「大日本金石史」で13年学士院賞。頼山陽ら近世文人の研究でも知られる。昭和19年6月24日死去。80歳。大坂出身。号は好尚。(by コトバンク)



【5】

「川村驥山(かわむら きざん)」…明治41年、神戸で開催の”神書会”に、森琴石、江藤翠石、橋本関雪等が参会

★独立行政法人 国立文化財機構 「東京文化財研究所」 のホームページ”出版&デジタルアーカイブ:物故記事 昭和40年代 川村驥山(昭和44年4月6日)”の年譜に、明治41年、「川村驥山」が主催する書会「神書会」に森琴石、江藤翠石、橋本関雪等が参会したと書かれている。江藤翠石は「近藤翠石」の間違いであろう。
川村 驥山(かわむら きざん)は、明治15年5月20日、静岡県袋井市で生まれ、書道界で初めて日本芸術院賞を受賞するなど、書の第一人者として、大正~昭和時代に活躍した書家。本名は慎一郎。別号に酔仏居士,酔驥。3歳より父東江に漢学を、のち大田竹城に書を学ぶ。幼児より書の才能の頭角を現したという偉才ぶりを発揮。鍾繇(しようよう)の楷書や懐素の草書を研究、晩年には狂草を創作するなど、生涯を書道の発展に務めた。。昭和44年4月6日、86歳でその生涯を閉じた。
※川村驥山の生涯を綴った小説「「天馬のように走れ― 書聖・川村驥山(きざん)物語」(榊原昇三・那須田稔作/ひくまの出版)が刊行されている。
★森琴石と川村驥山との関係は不明であるが、森琴石は静岡方面には知己がかなり多かったとみえ、森琴石の日誌や控録などには駿河地方の人物が多く出てくる。森琴石は橋本関雪の父「橋本海関」とは交流があるので、関雪とも知己の間柄だったと思われる。近藤翠石は「平成21年6月【2】■4番目」に記述があるように、兵庫県西脇市の国登録文化財に指定されている「旧来住家住宅」に、橋本関雪などと共に”襖絵”が残されている。



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石敢當 梅石書