森琴石(もりきんせき)1843~1921

森琴石 調査情報

平成10年10月~現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成22年(8月)

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  今月の話題

エピソードいろいろ
【1】森琴石の中国趣味は衣装にも及ぶ
【2】大隈重信の事・・・・★森琴石の日誌より
京都老舗料亭「中村楼」
南極探検隊後援会
★執事入江俊次郎(森家曾祖父)ら側近の災害義捐金寄付記事
【3】森琴石の居宅全焼…第2回大阪大空襲(昭和20年6月1日)による



【1】

先月度にご紹介した「栗田石癖」の師匠「小曾根乾堂」は、中国服を着、片手で月琴をひき、車夫也小間使いを連れて歩いたというほど中国趣味が強かったという。



森琴石が中国趣味が強い事は、当HPでも度々ご紹介しているが、中国音楽に関しても、明清楽器の名手「平井連山」の封筒を作成し(作品紹介:その他)、又「平成20年9月【2】」でも記述したが、長崎の中国人通訳で、日本に帰化して「河副作十郎」と名乗り、明治10年に清楽の楽譜「清楽曲牌雅譜」を著した「何 杏村」とも交流があった。

帽子をかぶり扇子を持つ<中国風の装い>をした、森琴石の中国趣味を示す珍しい写真を下にご紹介します。



 

 



森琴石の≪中国風スタイル≫




写真ご提供=舩田晴夫氏(鳥取県西伯郡大山町・舩田舩岳孫)
 
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左から   森琴石長男[雄次]・長女[昇(しょう)]・森琴石妻[ヤス]・森琴石
★撮影年は不明だが、明治13,4年、森琴石38歳前後の頃のものと思われる。森琴石が盛んに来日中国文人と交流した時期。
★画像は、HP用に色目を修正しています。撮影場所、写真館は不明。




【2】

平成17年2月■3番目」や「平成20年8月【1】注2★2つ目 森雄次・妻梅子 記念写真」などでご紹介した、森家の曾祖父の一人「入江俊次郎」は、大隈重信が信頼を寄せた一番の側近者だった。



森家と入江家の婚姻については、大隈重信の関与があったと思われ、森家と入江家の血筋を引いた「寿太(壽太)」の名付け親は大隈重信。



明治45年5月下旬、大隈重信は夫人を伴い、山陰地方を訪問した。その帰路の京都で、、森琴石の妻ヤス、孫の寿太など森家の一行は、夫妻の宿舎「中村楼」で落ち合った。森琴石の日誌に記述されている 注1



大隈重信は、日本で初めて南極を探検を成功させた「白瀬矗(のぶ)」隊長の「南極探検隊」の後援会会長を務めた。森琴石の日誌には、後援会会員が<後援会費捻出協力の為、森琴石の元に、寄付画を依頼しに訪れた>旨の記述が残されている 注2

曾祖父「入江俊次郎」は、執事として大隈重信を補佐した。入江家ご子孫の話によれば、入江俊次郎は、国内で発生した災害には、大隈重信の名前で寄付などの慈善行為を度々行い、大隈重信の代筆は日常的にしていたという。

明治29年6月15日、三陸海岸で発生した三陸沖地震は、震度は2、3程度のものだったが、地震後30分で沿岸各地に津波が来襲、一瞬にして三陸沿岸は地獄と化した。約26,000名の死者、家屋流失全半壊1万以上を出した。津波の波高は14メートルから38メートル余りまで達した。この災害には、大隈邸に住む側近者一同、義捐金を寄付したようだ。ミラーサイト(東北大学)<津波ディジタルライブラリ->から、明治29年7月14日付「横浜毎日新聞」の記事、義捐金寄付氏名一覧に、大隈邸で勤める「入江俊次郎」ら側近者の氏名の掲載記事が閲覧できる 注3。側近者まで寄付者として氏名を掲げるほど悲惨な災害だったようだ。



 

注1

『森琴石の日誌』より ~大隈重信の記述か所~




 

明治45年5月29日、30日



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五月廿九日 晴
大隅伯、今日西京*着、令夫人同道、山陰             *西京=京都
地方ヘ被罷越候、右ニ付、明日山崎貞子同道、寿太      *山崎貞子=寿太母「梅子」の妹・寿太=森琴石孫
召連、西京旅館中村楼ヘ、ヤス訪フニ付、右進呈        *ヤス=森琴石妻
品相調之為、罷出、相求、明日之コシラヘ支度ス
五月三十日 晴
大隈伯、夫人同道、山陰地方ヘ御越し、
昨夕、西京着、中村楼ニ御滞在ニ付、ヤス、寿
太、下婢きく召連、朝八時ヨリ罷越ス、山崎
貞子モ同道、帰途西京山田立寄、同夜九時
頃帰宅ス、
註釈
[中村楼 ]…京都八坂神社の門前茶屋として、450年余の伝統を誇る老舗料亭。
[山崎貞子]…佐賀藩士「入江俊次郎」の三女=森雄次の妻「梅子(戸籍名は兎免)」の妹/琴石妻ヤスの弟(幼時に養子に入り山崎姓となる)と結婚
[ 西京山田 ]…森琴石妻「ヤス(旧姓山田)」の身内⇒当時京都に身内が住んでいたようだ。ヤスの弟は、幕末某宮家に仕えていた女性を維新後妻に迎えた。
★大隈重信は、明治45年5月山陰地方を訪れていた。 東郷温泉湖泉閣 養生館 に宿泊の記録がある。
★森琴石は同行していない。この頃以前から、森琴石は体調が思わしくなかったのか?、往年の諸国漫遊のような遠出は出来なくなったようだ。
 


注2

『森琴石の日誌』より  ~南極探検後援会の記述か所~



 

明治44年6月4日、5日、6日



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六月四日 曇、夕前雨
○天王寺筆ヶ崎町・田畑良蔵ト申人来リ、
南極探検後ヱン画会之節、帛沙揮毫
依頼有之、右受取ニ来ル、
六月五日 曇
◎午後、南極探検後援会委員・岸本
愛身と申人罷越し、同会費用之為、寄送
画二枚揮毫依頼ニ付、承諾ス、
六月六日 晴
○午後、昨日依頼越ス南極探検後援会
寄送画絹、尺五、二枚持参ス、
★森琴石研究(会)では、上記日付の日誌は、明治45年としたが、年号について疑問が生じた…白瀬隊が南緯80度05分に到達したのは、明治45年1月29日。この日記の日付、明治45年6月時点でまだ寄付活動をしていたのか?、明治44年の誤りではと思われ、明治44年とした。日誌の年号の特定、再検証の必要あり。
★南極探検隊については、早稲田大学HP:教育者大隈重信:白瀬南極探検隊と大隈重信をご覧ください。
★日誌翻刻=成澤勝嗣 氏(早稲田大学文学学術院 第二文学部 准教授)
 


注3

「明治三陸地震津波義捐金記事」 ~大隈重信側近者の氏名掲載~




 

横浜毎日新聞・明治29年7月14日第4面




明治三陸地震津波義捐金 ○海嘯罹災救恤義捐金



明治二十九年七月十四日
義捐金
○海嘯罹災救恤義捐金
金七圓 東京市 川崎初子・三輪竹次郎
金三十錢 山梨縣巨摩郡穂足村  
金十錢 岩手縣東磐井郡大原村  
金四圓六錢 埼玉縣比企郡竹澤村字木呂子  
金一圓五十錢 赤坂申巧舘  
金二十五錢 佐久間文吾
金十錢 田代市造
金二圓 牛込早稻田   大隈邸 久松親信
入江俊次郎 ⇒森家曾祖父(森琴石長男の妻「梅子」の父)
  久野久寧同
  山元治郎兵衛金一圓
  濱野 格同
  永淵達一郎 同
  水町みち子金三圓
  女中一同金一圓
     
以下省略
★薄く黄色で塗りつぶした部分が、大隈重信側近者。永淵氏は入江家親族。
★記事は、ミラーサイト(東北大学):津波ディジタルライブラリィー(津波ディジタルライブラリィ作成委員会)
新聞記事検索 ⇒キーワード検索(入江俊次郎) からご覧頂けます。
   
【3】

「大阪大空襲」とは、第二次世界大戦時に行われた、アメリカ軍による大阪への戦略爆撃・無差別攻撃の呼び名で、更に詳しく言えば、B 29(大型爆撃機)100機以上の空襲を「大空襲」とされている。大阪での大空襲は、8回にも及び、1万5千人もの死者を出し、大阪の町はほとんどが焼け野原となった。

昭和20年6月1日、第2回大空襲で、森琴石が住んでいた北区は壊滅した。森琴石は明治30年代前半から北区高垣町に住んだが、長男雄次が父琴石の為に”心を込めて建てた家屋敷”や”薔薇の栽培がしたくて広く取ったであろう庭園”も、跡形もなく焼失した。その全焼を証明する、町会長の手書きの書類が残されている 注1

 
◆大阪大空襲について(補足)
大阪への空襲は44年12月~45年8月14日まで約50回に及び、このうちB29戦略爆撃機100機以上による大空襲は計8回にのぼった。中でも、45年3月13日深夜から14日未明にかけての空襲は「第1次大阪大空襲」と呼ばれ、274機から計1733トンの焼夷(しょうい)弾が投下され、大阪市中心部約21平方キロの約13万6千戸が焼けた。一夜で4千人を超える死者が出たとされる、大阪では最大の被害となった。(kotobank.jp より)
◆大阪大空襲について(補足)
[たむたむ(多夢多夢)ページにようこそ]より…大阪大空襲
[大阪大空襲]
[大阪大空襲 Osaka Air Raid]
 

 

 

注1


森琴石住居 ―全焼証明書―


 
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備考
★北区高垣町の記述&掲載写真
平成19年9月【1】注1,2,3 森家庭園」・
平成19年10月【1】注1
資料:日誌「孫 森加津の日誌より 最後の方 森家写真」 など
★森琴石が住んだ<北区高垣町>は、その後<北区太融寺>にと変わった。森琴石歿後、妻ヤスは<豊中市新免>に転居。高垣町の居宅は料亭「いちま(文字不明)」として使用されたという。高垣町の住まいは、土地は正法寺の借地ではあった為、戦後は貸す家屋敷が無くなった分けである。戦前の大阪では、(資産として)土地を所有する事にはこだわらず、借地に家を建てたり、借家住まいをするのはごく一般的だったそうである。森家が所有する住道村(現大東市)の土地は不在地主で没収された(門人:氈受楽斎(六)氈受家と森家の縁)。全焼証明書にある<豊中市北刀根山>は、寿太が結婚後に住んだ住所。住所の番号は削除しています。


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