森琴石(もりきんせき)1843~1921

森琴石 調査情報

平成10年10月~現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成22年(5月)

  今月の話題

【1】森琴石旧蔵小画帖
●揮毫者順序
1  小原竹香 「書」
2  小原竹香「詩(五律)」・・・明治8年
3  建野聽山(建部聴山)「エビと小魚図」
4  森琴石「山水図」
5  高陽寒史 「詩(七絶)」
6  寺西易堂「山水図」
7  寺西易堂「詩(七絶)」
8  水原梅屋;「枯れ木に鳥図・明治13年
9  寒泉「詩(五古)」
10 波部竹城「石鍾図」
11 水原梅屋「詩(五絶)」
12 小山九江?「釣舟図」・明治13年



【1】

先月度は、森琴石旧蔵小画帖について、その内容について少しご紹介しました。今月度は他の10図の全容をご紹介致します 注1。小画帖の元の持ち主は「建部聴山(六右衛門)」。その「建部聴山」については、詳しい伝歴及び人物像は依然不明であるが、小画帖の揮毫者から聴山の交流者を知る事が出来る。揮毫者は、森琴石の交流者とも重なる。建部聴山は趣味人として名高く、又「永富撫松(平成22年1月【1】)」と交流がある事などから、「建部聴山」も豪家の出で、知己には地方の名家や豪家の者が多いと思われる。推測であるが、当時の多くがそうであったように、維新後に大坂に住んだ可能性がある。

揮毫者中「高陽寒史」及び「寒泉」については特定出来ていない。


明治16年11月に出版された、渡邉祥霞編、杉浦高陽閲による『明治画家畧伝注2』の、第三区支那南北派の項では、大阪の画家として取り上げられたのは「森琴石」と「水原梅屋」のみである。校閲者の「杉浦高陽」は越後高田生まれで、画を増田桂堂に学び、維新後東京府に出仕した。「明治画家畧伝」には高陽自身の伝記も掲載されている。森琴石の周辺には越後出身の「中野雪江」が同じような経歴を持つ。乏しい根拠ではあるが、「高陽」は「杉浦高陽 注3」を指すのでは無いか?とも考えられる。しかし落款の印にある<密>と一致する材料が無い。

「寒泉」は、淡路洲本生まれの儒者「奥井寒泉(奥井荘一) 注4」の可能性がある。「小原竹香」が、淡路生まれの「忍頂寺静村」の”墓碑の碑文の撰文”をした事、「奥井寒泉」の師匠「藤森弘庵」や「大沼枕山」が、森琴石周辺の人物と近い事など共通点がある事、印の<白賁>は、「奥井寒泉」の名<賁>と、字(あざな)「子白」の<白>の可能性がある。





 

注1

小画帖の内容紹介



◆賛・詩文の読み、読解、注釈=松戸市・小林昭夫氏
  印・サインの読み=成澤勝嗣氏((早稲田大学文学学術院 第二文学部 准教授)

◆画帖の揮毫順序は 右から左。



 

秩と表紙

1;小原竹香「書」



サイズ
秩=縦11.5cm x 横5.5cm
画帖=縦11.5cm x 横5.0cm

 



墨花叢飛

サイン
=竹香生題



■小原竹香について
〇名は正棟。元津山藩士。明治維新後京都権判事になるが、嫌疑を受け幽囚された。後明治5年奈良県典事に命せられるが公務を好まず、大阪に移住した。詩文に長じ、五畿内中国地方を歩き、門下に教授した。古書の収集を趣味とし、文人墨客と清遊した。 ・・・・「大阪人物辞典」(三善貞司著/清文堂/平成12年)・・・・
〇明治15年「浪華の魁」には、漢学及詩文畫 小原竹香:北濱一丁目 とあり。同年の「大阪名所独案内」では )漢学及詩文畫 詩書家 北濱五:小原竹香 とあり。森琴石の著書類に揮毫者として名あり。
〇森琴石旧蔵小屏風に、竹香の揮毫詩書あり。森琴石の周辺と交流が多数あり、森琴石の師匠「忍頂寺静村(淡路島に住む)」の墓碑の撰文もする。
〇京都府立総合資料館には、『小原正棟所蔵古文書写=古文書一覧(あ行)をご覧ください』が収蔵されている。
   
 
2;小原竹香「漢詩」(明治8年) 平成22年4月【1】」をご覧ください。
3;建部聴山「エビと小魚図」
   
 
5;高陽寒史 「漢詩」
4;森琴石「山水図」

 

読み
  雨餘秋色満東籬
  重器玉姿物落時
  初覚養埋労苦薄
  伐来細竹援低枝

読解
  雨余の秋色 東籬に満ち、
  重器玉姿 物落つる時、
  初めて覚(さと)る 養埋の労苦薄かりしことを
  細竹を伐り来りて 低枝を援けしむ。

注釈
  「重器玉姿」
  大切に育てていた植木や花卉のことであろう。
  「養埋」…土で覆って育てる。

サイン=高陽寒史


  右上…旡窮(無窮)
  左下…密・印

読み
  曾見沈研圃有鍾山佳趣圖模其意 琴石

読解
  曾(かつ)て沈研圃に「鍾山佳趣圖」の有るを見、
  其の意を模す。

注釈
  「沈研圃」…清代の文人。(袁枚の友人だったらしい。)
  「鍾山」…南京郊外の山。
  宋の王安石がその近くに隠棲したことで知られる

サイン=琴石



■「高陽寒史」の”推測人物”は下方 注2 に記述。

   
 
7;易堂旧作「詩(七絶)」
6;寺西易堂;「山水図」

 

読み
  蘿月松風尽掩門
  幽栖人天歳願還(?)
  情惶写出鴻爪痕
  一宇茆菴水畔邨

読解
  蘿月・松風 尽(ことごと)く門を掩い、
  幽栖の人天 歳 還るを願う。
  情惶 鴻爪の痕を写出し、
  一宇の茅庵 水畔の村。

注釈
  「人天」…その人にとって最重要のことがら。
  「歳願還」…この年が無事に終って新たな年が
          来ることを願うのみ。
  「情惶」…謙虚な心。
  「鴻爪」…「雪泥鴻爪」、
        人の行ないのはかないこと。

サイン=易堂舊作(旧作)

読み
  貌(?)洲村舎図

注釈
  「貌(?)洲」…どこかの地名を漢語風に表現したと思われる。






■寺西易堂について

〇漢詩人。文政九年1826江戸生。生来多病とて家業を弟に譲り、村瀬乙大に師事、経詩詩文を学び、青年期から諸国遊学に出た。信濃で木内梅軒、遠州で藤森弘庵に学び、緒方研堂を助けて洋書を翻訳するなどした。幕末に大坂に入り後藤松陰の教授を受け、明治2年1869瓦町一丁目で開塾、儒学詩文を教える。大正5年4月、90歳没。・・・・「大阪人物辞典」(三善貞司著/清文堂/平成12年)・・・・
〇漢学者。名は鼎。名古屋の人。村瀬太乙・林鶴梁・藤森行庵等に学ぶ。大阪府勧業課長・大阪博物場長等を務める。のち大阪船町橋に私塾愛身学舎を設け、門下の育成につとめた。また南画・書を能くした。大正5年(1916)歿、91才。・・・・思文閣美術人名辞典・・・・
エピソード
〇森琴石や周辺の資料からは、寺西易堂の名は頻繁に出る。明治末期~大正初期にかけて、大阪での最古老の文人であった。折しも新南画が一斉風靡し、昔ながらの文人気質を持つ者は、煙たい存在と敬遠されがちで、「平成20年2月【2】注3 南画界の現状を懺げく 寺西易堂」にあるように、生前中にもかかわらず<物故>の虚報被害を受けた。易堂は、村田香谷や藤澤南岳らと共に、森琴石とは互いが歿する直前まで友情を分かち合った間柄。

   
 
9;寒泉「詩(五古)」
8;水原梅屋「枯れ木に鳥図・明治13年

 

読み
  聲々叩々鼓
  読蔵畜南(?)詩
  不分梅花月
  悩人過暉(?)殿(?)

読解
  声々 叩々として鼓し、
  蔵蓄の南(?)詩を読む。
  梅花を分かたざるの月、
  悩人 暉(?)殿(?)に過(よぎ)る。

注釈
  「叩々鼓」…トントンと(何かを)叩きながら。
  「南(?)詩」…「詩経」の「南詩」(周南、召南)
        のことか?

  「暉」…輝。

サイン=寒泉


  右上…自然
  左下…白賁・貞卿

読み
  庚辰秋日 写于亦可斎中

読解
  庚辰秋日 亦可斎の中(うち)に于(おい)て 写(えが)く。

注釈
  「亦可斎」…書斎の名。

サイン=梅屋生




■水原梅屋について

〇天保六年大坂生。名は耕豊、別号凝香。鴻池一族の山中朔之助の庶子、水原姓を継ぐ。広瀬旭荘に師事し、詩文に長じた。幕末の動乱期は旭荘の影響を受けて勤皇派に与し(くみし)国事に奔走した。長三洲とも深く親交する。明治に入り、大阪若松町に開塾し若者を教授するのを楽しんだ。明治17年7月、琴石と共に浪華画学校の支那画の教師となる。明治26年2月、58歳没。・・・・「大阪人物辞典」(三善貞司著/清文堂/平成12年)他・・・・
〇著書類に『漢画進歩. 蘭譜,竹譜 』(森本太助等, 明13.10)・『漢画独稽古』(赤沢政吉, 明14.5)・『劒掃帖』(長三洲他、赤沢政吉, 明19.2)・『三洲我家帖』(長三洲他、赤沢政吉, 明19.10)・『明治名家仿古画譜』( 前川善兵衛等, 明13.5) など。
〇有賀長伯原著「麓乃塵 改正増補版 4冊」、同「和歌 麓之塵 改正増補版 2冊」の巻頭画は水原梅屋、明治14年響泉堂刻による。⇒「平成18年5月【2】」に記述
モメ
〇故森寿太(森琴石孫)の話では、森琴石の存命中、森琴石の画を最も多く所蔵して頂いたのが、鴻池氏(鴻池善右衛門と思われる)だったそうだ。森家の文政時代の<控え帳>には鴻池姓の記録があるなど、鴻池家とは古くから関わりがあったようだ。・・・・・⇒当HPでの鴻池氏記述か所=「平成15年9月」・「平成18年5月【4】注3 最後の方」・「平成20年8月【1】注4★2番目」・「平成20年12月【1】■2番目」など。

■「寒泉」の”推測人物”は下方 注3 に記述。

   
 
11;水原梅屋「詩(五絶)」
10;波部竹城「石鍾図」

 

読み
  断崖[留]虎跡
  老樹見龍蟠
  下有清泉在
  翠蕪相暎寒

読解
  断崖 虎の跡を留め、
  老樹 龍の蟠(わだかま)るを見る。
  下に清泉の在る有り、
  翠蕪 相(あひ)映じて 寒し。

サイン=梅屋生録近製。崖下誤脱留字

          (崖の下に誤って留の字を脱した)

読み
  清人尤廕曾蔵蘇東坡所玩石鍾
  容升許銅把篆元祐二字蓋貴種故物也
  毎愛之度冩石鍾図並書坡翁詩
  於上贈人傳播遠近名所居曰石鍾山房云

読解
  清人・尤廕、曾(かつ)て蘇東坡の玩(めで)し所の石鍾を蔵す。
  升許を容れ、銅把に「元祐」二字を篆す。蓋し貴種の故物なり。
  毎(つね)に之を愛し、度(たびたび)石鍾図を写(えが)き、
  並びに坡翁(蘇東坡)の詩を書す。人に上贈し、遠近に伝播して
  於(よ)り、居る所を名づけて「石鍾山房」と曰ふ、と云へり。

注釈
  「尤廕」…不詳。
  「升許」…一升ほど。
  「銅把」…銅製の取っ手。
  「元祐」…宋代、蘇東坡の頃の年号。

サイン=竹城間人戯写


  右上…
      「美しい玉」の意。字体は簡略化されている。
  左下…敬・主弌




■波部竹城について

〇名=敬。字=主一。丹波の人、住浪華。篆刻家。
〇明治15年「浪華の魁」では、翰墨賞古諸派 に<波部竹城 :道修町三丁目>、明治21年「大阪市中近傍案内」では<篆刻家>に名が出る。⇒「関連資料:大阪の有名諸名家
〇著書に『山陽詳傳 2冊』 (波部主一編/小川新助,/明治11年7月)あり。
モメ
森琴石旧蔵小屏風に、波部竹城が揮毫。森琴石は、篠山で画を揮毫した足跡があり、丹波出身の文人との交流が見られる。
   
 
12;小山九江 「釣舟図」・明治13年
 




読み
庚辰秋日寫

サイン=九江生

九・江

 



■小山九江について

〇嘉永六年1853大坂生まれ。名は義平、字子康、通称忠兵衛。家業は南久太郎町の薬種商。木下盧洲に画才を見込まれ、田能村直入に弟子入りする。稲垣秋荘、藤沢南岳に漢学。大西関雪に謡曲を師事した。大正8年66歳没。
〇明治15年「浪華の魁」では、翰墨賞古諸派 に<小山九江 :北久太郎三丁目>とあり。
モメ
〇森琴石との接点は「藤沢南岳」が大きい。
〇森琴石の周辺には「梶山九江」という画家もあり。

■「寒泉」の”推測人物”は下方 注3 に記述。

 


注2

『明治画家畧伝』(渡邉祥霞編、杉浦高陽閲/・明治17年4月出版/渡邉氏蔵)

〇「明治画家畧伝叙」での、小田切盛徳の撰文には<明治15年10月 絵画共進会が開催された。美作の渡邉祥霞(祥次郎)が”五百名の現今画人の略伝を集めた”>等が書かれている。
〇奥附
明治16年11月16日版権免許
編輯兼出版人;岡山県士族 渡邉祥次郎
発兌書肆;甘泉堂 山中市兵衛・有隣堂 穴山篤太郎・春陽堂 和田篤太郎・美術新報 鴻盟社

注3

「高陽寒史」について・・・・推測人物

『明治画家畧伝』より
杉浦高陽;上野公園地内東照宮事務。花卉、山水。
名は耕成、字は鋤雲。安政2年越後高田に生まれる。秋山某の子。杉浦勝雄に養われる。画を増田桂堂に学ぶ。後東京に出て諸家に往来する。今東京府に出仕する。

注4

「寒泉」について・・・・推測人物

奥井寒泉 (おくい かんせん)
1826‐1886。幕末-明治時代の儒者。
文政9年生まれ。奥井中里(ちゅうり)の子。阿波(あわ)徳島藩士。江戸に出仕中,藤森弘庵に儒学を,大沼枕山(ちんざん)らに詩・書をまなぶ。文久3年洲本学問所助講,明治元年に儒官となる。維新後は師範学校,洲本中学などでおしえた。明治19年11月2日死去。61歳。淡路(あわじ)(兵庫県)出身。名は賁。字(あざな)は子白。通称は荘一。・・・・・⇒コトバンク デジタル版日本大人名辞典+Plus
奥井莊介(おくいそうすけ)
文政9年(1826)~明治19年11月2日(1886)。一橋徳島藩邸の文学教授。 《生》淡路洲本 《号》寒泉
文久3年学問所司読、明治元年儒官。明治2年洲本の文学教授。同年11月柴秋邨の後任として一橋徳島藩邸の文 学教授。廃藩後は師範学校、中学校の教員。また有栖川宮熾仁親王の侍読を勤めた。 ・・・・⇒徳島幕末維新期人名事典


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