森琴石(もりきんせき)1843〜1921

森琴石 調査情報

平成10年10月〜現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成21年(10月)

  森琴石の疑問  ―その1―

【1】 森琴石は幕末・維新のころ、何をしていたか?
【2】 諸国漫遊について ・・・・森琴石伝には漫遊先に九州が入っていない・・・・
【3】 森琴石は中国に行っていたか?


「森琴石画集」 出版の遅れについて

一部の皆様方には「森琴石画集」が、今秋出版予定とお知らせしていましたが、諸般の都合で来春(4月頃)になります。お詫びを申し上げますと共に、今後とも皆様方のご協力、ご支援を賜りますようお願い申し上げます


【1】

森琴石が幕末の頃どのような行いをしていたか、初号「蘆橋」名で描かれた森琴石の下絵粉本類には、文久や慶応の年号のものがある。森琴石を紹介する伝記では、「鼎金城」に画を、金城歿後は忍頂寺静村に画を学び、「妻鹿友樵」からは漢籍・詩文を学んでいた・・・・と、書かれている以外には情報は無い。

平成19年7月【1】注3」でも触れたが、森琴石の大師匠「廣瀬旭荘」は、幕末国事にいそしみ、弟子の「鼎金城」や「行徳玉江」など周辺の人物たちは脇で補佐していたようだ。「平成15年11月」では、淡路島の忍頂寺家が勤皇の志士との付き合いがあるとご紹介しました。門下「波多野花涯」の父は桜田門外の変での連座者であるなど、当HP「雅友・知友」にも、幕末の”勤皇の志士”だった人物がいる。


当HP「作品紹介・その他:幕末若者像」では、たすき掛けし刀を差した森琴石の姿、「平成19年7月【2】注4」でも森琴石が刀を差した姿が映っている。黒い上衣が制服のように見える。これはもしかすると、妻鹿友樵が自身の私塾設立に先がけ、武塾を開いた時の延長線上にある”何らかの決意ある行動”をとる前に撮ったのでは無いか?と想像する。


平成19年7月【2】」でも触れたが、森琴石の養子先の森家は、江戸時代「廻船」関係の家業を営んでいたと思われる。大手廻船業者が親族にいた事などから、画や儒学を学ぶ傍ら、幕末の国事に勤しむ志士らに、宿泊や渡航その他に便宜を図る事は容易だった事と推察出来る。或いは小柄で風貌に特徴の少ない森琴石自身が、何らかの役割を果たす為、地方に赴いた可能性がある。森琴石の周辺には長州に知己が多い事、森琴石長男「雄二(雄次)」が、佐賀藩の有力者の娘(「平成20年8月【1】注2★2つ目」)と縁組をしたことなどから、森琴石が幕末維新時に、何らかの役割を担っていたかも知れない ⇒「森琴石紹介:係累人物」。


【2】

当HPの「森琴石紹介:文献抜粋」では、森琴石の小伝が書かれた文献資料を抜粋してご紹介しているが、疑問点が浮かびあがる。伝記には、森琴石が漫遊を好み各地を逍遥したと書かれているが、伝記では何故か九州地区が漫遊先として書かれていない。しかし「平成19年3月【1】にあるように、九州での福岡・博多・長崎の地図を作り、「雅友:石橋雲来(二)著書 ★「友蘭詩 第5集(明治27年刊)」 には、森琴石が博多で詠んだ詩が収録されている。このように、これらの地への訪問回数はかなり多いと見られるのに、何故か触れていない。


平成10年10月」に記述したが、明治28年には、福岡県鞍手郡小牧で描いたとの落款がある作品を残している。小牧には森琴石が尊敬する「中西耕石」の実家がある。耕石の実家は父が陶工をしていた。陶器好きの森琴石は、長男雄二(雄次)の妻の出生地の佐賀県では鍋島や有田にも足を運んでいたに違いない。大正2年、鞍手郡小竹町からは、大阪で画を学びたいと、森琴石に書簡が送られたきた。鞍手郡での縁が続いていたようだ。森琴石が近藤翠石に託した書簡を下記にご紹介します。


   
 

 

書簡

書簡ご提供=近藤成一氏(東大阪市・近藤翠石孫)


文面
拝啓筑前鞍手郡小竹町山本菲?氏学画之為来阪被致候、
貴家へ罷越間、御聞取御教示被遣度侯、
右二付 此段申上侯、宜布御承知可下
添書迄如比二御座候 以上
四月廿七日・・・・・森琴石

近藤翠石様

書簡判読=成澤勝嗣氏(早稲田大学文学学術院 第二文学部 准教授)

 


【3】

森琴石が存命中の伝記には、森琴石と中国文人との関係に触れた資料は少ない。唯一、明治44年「筧有隣」が著した「古今 書画名家詳伝」に”胡鐵梅に画を学んだ”と書かれているのみである ⇒森琴石紹介:文献抜粋 4」 。森琴石歿後では、第7回遺墨展での画集「森琴石翁遺墨帖」では、近藤翠石が書いた森琴石小伝に、森琴石と清国との交わりについて触れられている  ⇒森琴石紹介:文献抜粋 7 (二)森琴石先生小伝 。


しかし、「資料:書簡 清国人からの書簡」でも分かるように、森琴石の中国文人たちとの親密振りは相当なものであった。「平成15年12月」・「平成16年10月■3番目」・「平成20年2月【2】注4、注5」他でご紹介した「天野方壺」や親交者「石川逸翁」ら、森琴石周辺には、中国へ渡った画家が多く、「平成16年10月注3」の同孚泰(どう ふたい)など貿易に携わった人物の存在がある。これらも【1】で記述したように、森家の家業とも関係があるようだ。当時の森琴石は、他者に先んじて情報を入手しやすく、行動が取れる環境にあったと思われる。


南画の発祥地、中国への尊敬と憧憬の念が非常に深い森琴石は、南画の手法やその精神性の継承に、生涯心血を注いだ。 明治27年に起こった日清戦争後は、日中関係は悪化の一途をたどり、多くの日本人は、中国人の書画家の作品や資料を慌てて捨てたという。そのような時代背景の中でも、森琴石は一貫して中国を愛する姿勢を崩さなかった。森琴石の精神は門下にも受け継がれ、佐野岱石(二)鎌田梅石近藤翠石嘉本周石増田東洲など、主だった門下生は中国や朝鮮を訪れている。


森家には、森琴石が研鑽したと思われる中国関係の資料が、まだかなり残されている。

平成20年2月【2】注4,5」でご紹介した、金冬心(金寿門)・胡公寿・張子祥・倪旭華・楊伯潤・柳華廬逸史らの名がある小画帖は「森琴石は、実際に中国に行っていたのでは?」と、日中の見識者からご見解を頂いています。中国好きの森琴石が中国に渡っていたとしても不思議では無い。今後の検証が必要な画帖であるようだ。小画帖より一部を下記にご紹介します。



   
 

 

〜森琴石 小画帖〜 より

◆倪 旭華 (げい きょくか)

※倪旭華の伝歴は不明

落款
光緒四年仲冬升如 倪旭華 作於申浦客次  印=響泉
(明治11年11月 / 倪旭華が上海で描く / 印の響泉は森琴石の印)






◆張 子祥 (ちょう ししょう)

※張子祥(1803ー1886)=名熊・字壽甫・号子祥・別号鴛湖外史、鴛湖画隠、鴛湖老人等・浙江嘉興人

清代後期の画家。浙江省秀水の人。字は子祥、号は鴛湖外史。山水・人物画をよくしたが、特に鮮麗な色彩の花卉画に優れた。長く上海に住し、蘇杭・上海で流行した鴛湖派と称される画風を確立した。また、書は隷書に優れ、詩詞をよくした他、金石・書画の収蔵でも知られた。光緒12年(明治19・1886)歿、83才(思文閣人名辞典)。


落款(部分)
戌寅小春月上浣七十六老人子祥緒?熊 印=栞石
(明治11年10月上旬 / 76歳、張子祥が描く)


当HP「資料・書簡:清国人からの書簡 / 衛鋳生・・明治18年8月27日」に名が出る。
右下方の印は、森琴石作品に良く見る印(森琴石の印譜は、森琴石画集でご紹介します)




◆楊 伯潤 (よう はくじゅん)

※楊伯潤=字佩甫・號茶禪,別號南湖外史,浙江嘉興人・詩が巧みで書画に優れる

落款(部分)
右 戌寅冬十一月擁燭寫於語石齋 楊伯潤 印=栞石
左 南湖外史伯潤并題 印=響泉


雲津浦(島根県)

   


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