森琴石(もりきんせき)1843〜1921

森琴石 調査情報

平成10年10月〜現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成20年(10月)

 

今月の話題

●森琴石 喜寿祝賀記念品<木坐像>と 作者”相野青牛” について
●”肥田溪楓”の個人誌「あのな」 について

【1】

先月度【2】 注5」でお知らせしましたが、森琴石の77歳の喜寿を祝う宴が、大正8年5月4日、大阪網島の大川畔に建つ料亭「鮒卯楼 注1」で行われた。祝賀会に先立ち、前年の12月、門生達から<木製坐像>が記念品として贈られた。贈呈目録によれば、彫刻師は「相野青牛」と書かれている 注2

木坐像の製作については、森琴石の孫娘が書き記した「森 加津の日誌・大正7年11月12日&12月1日」に少し触れられている。坐像の写真が「森琴石翁遺墨帖 乾坤」に、「木蘇岐山」の”森琴石小肖の賛”と共に載せられている 注3

【2】

森家には、その「木製坐像」が現存する。坐像は長年に亘り、紫檀製の厨子の中に収められていたが、現在は厨子の上に置き、終始見られるようにしている。

坐像の由来やその他については、一切聞きそびれてしまった。彫刻の良し悪しや材質などの知識は全く無いが、かなりの出来栄えに見える。顔部分は素焼きの土製で着色され、右手には実物の扇子を差し込む事が出来る 注4

彫刻家「相野青牛」については、森琴石調査開始以来この10年、美術関係の文献資料から、その名を見ることは皆無だった。森家では、「相野青牛」は、泉州の祭りの”だんじり彫刻師” では無いか? と、推測していた。

この度、明治期の大阪の財界人「肥田弥一郎 注5」が、私的に出版した雑誌「かぼちゃ/あのなあ 掬水庵漫筆 注6」に、彫刻師「相野青牛」について触れている事が判明。「相野青牛」は、肥田氏と親交があり、人形彫刻を得意とした人物だったようだ。

「相野青牛」は、享保頃の優雅な上方人形を模した力作があるなど、大阪の木彫家で、自身が製作する人形を頒布する<風俗人形会>を主催した 注7。肥田氏が発行する「あのな」の発刊賛同人で、肥田氏が主催する「楓文庫」の同人「秋錦会」のメンバーでもある 注8。「あのな 第11号」には、相野青牛作「藤澤南岳」の坐像の写真が載せられている。森琴石の坐像と作風が同じようだ。「相野青牛」については、依然詳細は不明である。

 
 
注1
 

「鮒卯楼 裏面之図」

−「浪華の魁」(垣貫一右衛門編/明治15年1月) より−

鮒卯楼 裏面之図


★料理商 大阪北区網島町 澤卯兵衛 鮒卯楼裏面之図 当主にて17代の営業

〔鮒卯楼は、明治15年時点で17代目とある。喜寿祝賀会が開催された大正8年時点では、現在まで存続している唯一の料亭「花外楼(元加賀伊)」より歴史は古いようだ〕

 
注2
 

「森琴石喜寿祝賀 記念品目録」 

第1枚目(2、3枚目の画像は省略します)

森琴石喜寿祝賀 記念品目録

ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー

目録
一,先生肖像木彫壹基    相野青牛作
座布団壹枚        志保川独楽製(未調査)
厨子壹龕
奉祝先生老師臺喜寿之榮為記念捧呈候也
大正七年十二月一日
伊藤 石僊 原弥兵衛 波多野花涯 西尾雪江 堀内謙吉
大野菘石 大市清琴 河口渓石 改発弥兵衛 加茂智暁
嘉本周石 神阪棄造 米田如山 米村攵吉 田川春荘
多田康榮 中井百太郎 中村覚太郎 押柄雲峰 山口雄次郎
増田東洲 福田哲山 藤田秋栞 近藤赤彦 粟井春泉
佐野佐孝 氈受小八郎 森田松次郎 末田善次郎  
森 琴石先生        
玉案下        

ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー

★記念品贈呈者は森琴石一門での実力者と思われるが、当HP:門人紹介に名が無い者もいる。森琴石の日誌に登載する若手や新人、また物故者の名前は無い。画号ではなく本名の者もある。上記29名の内、年功者が贈呈者の人選などを働きかけたと思われる。この頃の森琴石は病気がちだった。

 
注3
 
「森琴石翁遺墨帖 乾坤」(近藤翠石編発行・昭和2年)より
森琴石紹介:文献抜粋2番目をご覧ください

森琴石翁遺墨帖 乾坤

 
注4
 

「森琴石 木坐像」 カラー写真

森琴石 木坐像

 
注5
 

「肥田弥一郎」 について

★4つ目まで=「あのな 第7号」9,10,11,12頁 〜肥田弥一郎〜 より 抜粋

★大阪島之内で、<虎屋銀行>を創業した"肥田弥兵衛”の三男として、明治10年2月に生まれる。人格温厚で篤実な事から”久左右衛門町さん”と崇められた。北野中学に通い秀才の誉れ高かったが、健康上の都合で中退する。閑地で静養の後、泉原準造(伊豆原和合)師に就き漢籍を修める。後虎屋銀行の支配人として経営に任ずる。
★文学・図書の耽読に造詣が深く号を<掬水庵溪楓>と名付ける。
★徳川時代の風俗に関する書籍など、古書珍書はもとより新書まで書籍の一大蒐集家であった。それらが高じて自宅邸内に書庫を作り「楓文庫」と名づけた。はじめは銀行の人たちに貸与した。達磨屋や鹿田静七などの大阪の版元書肆と親しい。
★玩具通でもあり「川崎巨泉」などと親交があり、楓文庫の一隅に、蒐集した地方玩具を陳列した。
★虎屋銀行・虎屋信託の取締役、大阪聚文社の監査役などを務めたが、経営は分家に任せ悠々自適に過ごした。 →コラム:巨泉とその周辺 による

 
注6
 

「かぼちゃ/ あのな 掬水庵漫筆」 について

★3つ目まで=「あのな第3集 丙寅1月号9頁、あのなの始」 に記載                                 

★肥田溪楓の個人雑誌。
★大正2年、大阪の歴史・風俗・故実を研究する事を目的として発案された。
★賛同者

◇渡辺霞亭(名古屋生まれ・名は勝・新聞記者・大阪朝日新聞社時代に多数の連載小説を書く・書画骨董に造詣が深い)
◇渡辺虹衣(本名渡辺源三・骨董研究の大家)
◇川崎巨泉(おもちゃ絵画家・堺生まれ・中井芳瀧に学ぶ)
◇木村旦水(古書店兼出版社だるまやの経営者)
◇相野青牛 など

★大正3年にスタートすべく渡辺霞亭に頼んで、宣伝文を書いてもらった。
★大正13年2月11日に第1,第2号を発行、昭和5年6月11日の第78号まで続いた。1年分12冊が一集として合本されており、第6集まである。
★内容は連載「茄子と南瓜」・「もみぢかご」・「背戸の段畑」・「演劇控え帖」、大阪の出来事・歳時記・交流記録・肥田家一族の事・掬水庵日誌抄録・溪風文庫蔵書目録など、詳細且つ多岐に亘り、写真資料も豊富。当時を知る貴重な資料である。
★「平成15年6月」で記述の”肥田晧三氏”は 肥田家のご一族です。

◆「かぼちゃ/ あのな 掬水庵漫筆 6集」は、大阪府立中之島図書館・郷土資料−貴重図書「楓文庫」に所蔵されています。

◆「かぼちゃ あのな」 の題名は、
子供の遊び唄 ”どちらにしようかな 天の神様の言うとおり あのなのかぼちゃ・・・・・・・”を文字ったものと思われる

 
注7
 

「あのな 第7号」9頁《眉唾の記事 ●南島之内の楓文庫 大阪紳士の忙中閑(八)》 による

 
注8
 
「秋錦会」メンバー
肥田溪楓・池内崇豊・川崎巨泉・吉村直方・高橋米舟・高橋竹年(森琴石日誌に記載あり)・近藤精堂・相野青牛・鈴木雲溪=「あのな 第11号」 7頁

◆「あのな 第9号」3頁 ―秋錦会同人有馬行 近藤精堂― では、大正7年9月5日に、有馬に逗留して製作している相野青牛の元に、会員達が訪れ交流を深めている様子が綴られている。

 


HOME
Copyright (c) 2003 morikinseki.com, all rights reserved.

石敢當 梅石書