森琴石(もりきんせき)1843〜1921

森琴石 調査情報

平成10年10月〜現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成20年(5月)

 

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今月の話題

森琴石と歌舞伎役者
「四世嵐璃寛 第七回忌追善句集」
明治33年5月21日=<4代目 嵐璃寛>の7回忌
”4代目 嵐璃寛”追悼俳句集
表紙:森琴石筆「観音図」
発行=團扇堂(大阪市)
【1】

森琴石は、「墨香画譜」や「落款自在」をはじめ、森琴石には何種類かの木版画作品に着手している。明治33年に作成されたものに、「第四世嵐璃寛 七回忌追善句集」という<木版刷り物>が残されている。それは森琴石が、歌舞伎役者との繋がりを見せる資料ともなる。

「嵐璃寛」は、明治27年5月21日に亡くなった。6年後の法事に配られた「第四世嵐璃寛 七回忌追善句集」は、表紙には<森琴石筆 観音図>で飾られ、その次に 「5代目嵐璃寛・我当・土之助・時蔵・徳三郎・和三郎・右團次・みんし・巌笑・橘三郎」など、嵐一門や、身近な者による追悼俳句が寄せられている 注1

「4代目 嵐璃寛 注2」は、上方歌舞伎<嵐家 注3>の出で、<璃寛>はその筆頭名で、6代まで代々名優として名を馳せた<名門>である。

●<璃寛>の名は、「初代璃寛(2代目嵐吉三郎)」が、死の直前の文政4年3月、名跡を甥の<嵐大三郎>に譲り、<初代嵐橘三郎>と名乗り、5月には俳名の<嵐璃寛(李冠)>を名乗った事に由来する。

●「4代目 嵐璃寛」は、「三代 嵐璃寛」の実子で、男役から女役まで幅広くこなし、明治前半期の当時、「実川延若」・「中村宗十郎」とともに、上方役者の<三幅対>と称せられ、人気を博した。「中村宗十郎」と森琴石は、「学海画夢-三友聴琴」の中で、隣り合わせに座している。

●璃寛の前名は<嵐徳三郎>と名づけられ、歴代の璃寛は、徳三郎時代には、いずれも若手花形役者として大活躍した。 大正後期、18歳で映画界に身を投じた「嵐寛寿郎・通称アラカン」は、「6代目 嵐徳三郎」の甥である。

●嵐家は、「7代目 嵐徳三郎」が「7代目 嵐璃寛」を継ぐ者と期待されたが、平成12年12月惜しくも急逝した。「嵐璃寛」の名跡が途絶えたばかりでなく、衰退する関西歌舞伎の復興の中心人物として期待されただけに、その死は非常に悔やまれたという。

「4代目 嵐璃寛」の実父である<3代目 嵐璃寛>の”第13回忌法要”には、「羅雪谷」が表紙を飾る「三世嵐璃寛 十三回忌追善句集 」が作成された 注3。同句集は、早稲田大学図書館(古典籍・西垣文庫)に所蔵されている。 「羅雪谷」は、文久時代から明治初期にかけて日本に客遊した、中国(広州)画人で、指頭画に巧みで蘭竹・梅石画を得意とした。

明治8年版・大判錦絵「東京開化名勝 浅草奥山花屋鋪 植木屋六三郎底内清人羅雪谷仮寓居之図、筑波二王尊影相之図」からは、「羅雪谷」の”明治8年の足跡”を知ることが出来る。同錦絵は、江戸末から明治にかけて活躍した”浮世絵師”「肉亭夏良(小林清親)」と「惺々暁斎(河鍋暁斎)」の合筆によるものである 注4

<嵐家>が「3世 嵐璃寛」の法要句集の表紙画を「羅雪谷」に依頼した事、「4世 嵐璃寛」の表紙画を「森琴石」に依頼した事との相関関係など、森琴石と歌舞伎役者との関係は、まだ解明出来ていない。
明治期「「演劇改革・歌舞伎の近代化」に尽力した「依田学海」や「福地桜地」との交流が見られる森琴石であるが、<嵐家>は、森家が、江戸末期から贔屓(ひいき)にしていた一門だった可能性もある。

 
 
注1
 

「四代嵐璃寛 追善句集」(頁順)

表紙 森琴石筆「観音図」

22.0cm x 56.0cm  
表紙 森琴石筆「観音図」
5世嵐璃寛
庚子春日 琴石寫


追善俳句

追善俳句
門弟中





嵐みんし





嵐巖笑





嵐橘三郎





市川右團次





嵐和三郎





中村時蔵





片岡土之助





片岡我當
右より


追善俳句

追善俳句
柳尼 嵐徳三郎
てふ女 / 多満女 / 東川

追善俳句

追善俳句
蘆夕庵?(不読)

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〜落款 & 下絵〜

見開き時

見開き時    
琴石寫 庚子春日


三つ折時(末尾)

印 ←


三つ折時(末尾)

印=團扇堂 ⇒ 関連資料「大阪の有名諸大家(一)書画周旋人−北浜4丁目


下絵

17.8cm x 47.0cm
下絵

 
「嵐みんし」
嵐眠獅 大阪の歌舞伎俳優。初代及び2代嵐雛助の俳名。初代雛助が初めは俳名(てへん+民)子と書き、後に眠獅と改め、子の秀之助こと2代雛助に俳名眠獅を譲り、また子の岩次郎に芸名叶(王+民)子を名乗らす。而して家系、門流が叶(王+民)子。嵐(王+民)子、嵐みんしと芸名を名乗り、明治時代の嵐みんし(始め野中・・本名西脇勝吉=明治38年歿)まで、5代に至る。『新撰大人名辞典]』平凡社・昭和13年)より
「嵐巖笑 (あらし がんしょう)」
(1862〜1930)明治時代の立役の俳優。文久2年10月15日京都下京区祇園新地に生る。父は西陣の織物商。本名北村保次郎。初名実川都若、前名実川延丈。俳名は菊堂、家號は小村屋。四代嵐璃寛の門。明治3年初舞台。10年12月巖笑と改名。京都劇団の若手人気役者として活躍。明治後期からは老巧として重んじられた。昭和5年11月19日歿。年71。『新撰大人名辞典]』平凡社・昭和13年)より
注2
 
「嵐 家 (あらし け)」
歌舞伎俳優の一系統をなす藝名の姓。延寶期の立役を代表する名優の一人嵐三右衛門(本名西崎三右衛門)が、初め丸小三右衛門といひ、寛文の頃、『小夜嵐』といふ狂言で「六万」を勤めたのが大に当たり、その台詞に「花に嵐」といふ句があったので、世間から異名を「嵐」と呼ばれ、遂にそれを自分の芸名の苗字にしたのが始め。

而して二代三右衛門の門から嵐三十郎を、三代三右衛門の門から嵐小六(吉田屋)、嵐三五郎(京屋)を、更に嵐小六の子から嵐雛助、叶(王+民)子を出し、また初代三右衛門の弟、嵐勘右衛門の門流、嵐勘三郎の門から嵐吉三郎(岡島屋)を、二代吉三郎、嵐猪三郎の門から嵐璃寛(伊丹屋のち葉村屋)、嵐璃かく(王+玉=豊島屋)等を出して後世に栄えたが、嵐は即ちこれ等の代に及びそれぞれの門系の名乗る称である。
現今では吉三郎、璃寛、璃かく(王+玉)等の橘嵐系が伝統され、本系の三右衛門、小六、雛助は絶えた。
『新撰大人名辞典]』平凡社・昭和13年)より 
注3
 
「4代目 嵐璃寛 (あらし りかん)」
(1837〜1894)明治時代の女形の名優。天保8年生る。父は三代璃寛。本名淺川璃寛。初名嵐和三郎、前名嵐徳三郎(三代)。俳名梅猿、家號葉村屋

嘉永四年冬父と共に江戸へ下り、河原崎座の「瀧白旗」で、秩父小六郎と、文遣ひかしくの六三に扮したのが初舞台と伝う。安政二年冬父と共に帰阪し、同六年から宮地芝居に出て修練し、文久元年春筑後芝居で三代徳三郎となって人気を博し、慶応三年四代を襲名す。それより實川延若や中村宗十郎と三幅對として持ち囃されたが、二人より遅れて明治十一年中の芝居の座頭となった。同14年9月東上して市村座へ出て「大内鑑」の葛の葉を演じ、11月は久松座で「女舞鶴」の板額に扮した。15年市村座で團十郎や菊五郎とも顔を合わせをし、16年8月に帰阪した。明治 27年5月21日に没す。年五十八
・・・・『新撰大人名辞典]』平凡社・昭和13年)より・・・・
その他 「四世嵐璃寛 追善句集」での掲載者については、当HP上方にある”Google 検索機能”にてご検索ください
 
注4
 

「東京開化名勝 浅草奥山花屋鋪 植木屋六三郎底内清人羅雪谷仮寓居之図、
筑波二王尊影相之図」は、
2008年3月1日〜5月25日<河鍋暁斎記念美術館 −歴史の中の人びと展−> で展示されました。

★羅雪谷の指頭画「墨梅図」は、佐賀大学付属図書館”市場直次郎コレクション 掛け軸目録リスト(第三期)NO718”に所蔵されています。

    当HP記載 市場直次郎コレクション
資料紹介−詩賛 「題 琴石」紫水作 七言律詩
門人紹介−大阪市北区「鎌田梅石(五)●扇面 『鶴図』
 


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