森琴石(もりきんせき)1843〜1921

森琴石 調査情報

平成10年10月〜現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成19年(10月)

 
今月のテーマ  先月度【2】の続き=森琴石の薔薇栽培や薔薇愛好について
【1】森琴石が薔薇を栽培した理由(推測)
   森琴石の薔薇の画 〜美濃焼き窯元家所蔵作品〜 など

【1】

先月にご紹介しましたが、明治35年7月に刊行された『薔薇栽培新書 』の中、<薔薇陳列会 大阪>には、森琴石の自宅庭園 注1で栽培された薔薇は300種類に及び、800もの鉢植えのほか、垣植え地植えのバラが、咲き乱れる様子が書かれている。それはさながら現代の「ばらのオープンガーデン」を彷彿させる。

先月【1】■4番目に少し触れたが、明治4年に明治新政府の開拓使団長となった「黒田清輝」は、明治5年「開拓使官園」を開園し、そこで薔薇の栽培を試みたのが、日本での薔薇の文明開化の始まりとされる。

西洋の科学に興味を抱いていた森琴石は、慶応年間の頃、自身の肖像や、仲間との写真を撮らせている  注2。明治6年には東京に遊学し「高橋由一」に洋画法を学んだ。帰阪後は、銅版製作で化学技術を用い、洋画法は銅版画で表現した。森琴石の文明開化は、洋花の女王、薔薇の栽培にまで至ったようだ。
しかし乍ら、森琴石が<ただ薔薇が好き> という理由だけでは、300種類もの薔薇を栽培するとは考え難く、《何かの目的や理由があっての栽培では?》と、園芸研究家からの見解を頂きました。

大阪での<明治期のばら>についての情報は皆無である 注3。森琴石が薔薇に興味を抱いた経緯や、薔薇の苗木の入手ルート、栽培の手ほどきを受けた人物についての情報は無い。

関西では京都が、「薔薇栽培新書」の著者「賀集久太郎」を初めとし、「薔薇陳列會 京都 」にみるように、薔薇の栽培が非常に盛んであったという。
森琴石門下「田川春荘」の近隣には、日本の三大植木の産地<摂津国川辺郡長尾村>がある。その長尾村の園芸家のもとに、牧野富三郎が訪問していた。 注4

「薔薇栽培新書」が刊行された明治35年前後、岐阜県土岐市の<美濃焼窯元家>で所蔵される森琴石の<花卉作品>には、薔薇が添えられている 注5。「花外楼 注6」に所蔵される明治29年の「花卉図」にも中央に薔薇が描かれている。

森琴石が300種類の薔薇を栽培したのは、自身が「薔薇の画譜を著す」事も考えられるが、薔薇の栽培についての情報を提供したり、花卉図や本草画を得意とする人物に、<薔薇を描かせたかった>可能性もある。明治期に<薔薇の画譜>を著出版した画家はいない。

洋画の師「高橋由一」は本草画も学んでおり、森琴石の周辺には、医薬者や本草画に携わる人物の存在がある。森家の古老によれば、森琴石の門下には、花の画を非常に得意とする、早世した弟子がいたそうであるが、名は知らないと云う。

森琴石が、明治33年に稿した『成子氏煎茶会図録学稿 注7』の中に、「山名友石」の作品「菊花小禽図」の縮図が残る。「山名友石」は、明治34年10月20日「日本南画協会一宮支部発会」に山水図を出品。明治36年には「珍花図譜」を著し、38年にも再版されたが、その後の足跡は不明である。早世した門弟が「山名友石」かどうかは不明である。

森琴石は残した下絵類には、「本草画」とおぼしきものが少なからずあり 注8、森琴石の代表三著書「墨香画譜」・「題画詩集」・「南画独学揮毫自在」などにも、薔薇が描かれている 注9。「南画独学揮毫自在」の画稿が現存する。

「薔薇栽培新書」の編者「小山源治」は、京都博物会会員で、新種の蝶々を発見している。自身の蔵書のうち300冊を「天香園文庫 注10」と名付け、天理大学附属図書館に寄贈した。博物学に興味を持つ森琴石は、その方面の人物とも交流があったようだ。明治20年「樵石壽」の名で、極彩色で蝶々などを描いた、虫類・爬虫類、両性類等の精密画11枚が現存する。画・文字とも森琴石のものであるが、「樵石壽」については不明であり謎でもある。

 
 

『薔薇栽培新書』=はるまき氏(高知市・薔薇愛好家・園芸史研究家)のホームページ《Rose-colored Glasses》の中、<史料と資料 1900〜1909年>2番目に紹介されています。

<薔薇栽培新書 明治時代の薔薇陳列會 京都・大阪>=下記アドレスの中ほど以下にあります。http://bitter.sweet.coocan.jp/contens/wamei/X.html

 
注1
 
森琴石自宅庭園=写真:平成19年9月【1】注3
●森琴石居宅について
養父猪平の本籍伏見町を本拠とし、銅版画工房<響泉堂>を構えていた頃は、南本町(2回)・高麗橋(2回)を住所としている。明治10年代の清国人との筆談では、住所を東区伏見町と書いている。伏見町の自宅の離れで、胡鉄梅などの清国人を逗留させていたと伝えられている。明治31年頃、庭園写真にある北区高垣町に移ったようだ。因みに高麗橋の居宅は、その後「キリスト教会(現存)」となり、その隣には現在料亭「吉兆」がある。

★森琴石の最後の棲み家、北区高垣町の居宅は、「正法寺」の敷地の一部、280坪をを借り受けて、長男雄二が父琴石の為に建てた。明治末期頃、北区の区画整理に伴い、80坪減歩(げんぷ・減らされる事)された。薔薇(ばら)を地植えしていた敷地も含まれていたと思われる。正法寺では、昭和2年「森琴石第7回忌遺墨展」が開催された。正法寺は、昭和20年、空襲で全焼。先に避難させていた<ご本尊>を除き、殆どが焼失したという。戦後、近郊の豊能郡(現大阪府豊中市東豊中町)に移転し、現在に至る。
 
注2
 
慶応年間頃の森琴石肖像写真=「平成19年7月【2】注4」・「作品紹介:その他
(ガラス版裏面には、慶応三年頃と書かれている)
 
注3
 
明治期の大阪での薔薇栽培や歴史について=薔薇愛好団体や関係諸機関に問い合わせしましたが、この分野については全く調査されていないようだ・・・・・・という回答でした。

日本の三大植木産地<摂津国川辺郡長尾村>=現兵庫県宝塚市山本

山本の植木産業については、http://www.kiis.or.jp/kansaida/takarazuka/takarazuka06.html  をご覧ください。

 
注4
 
牧野富三郎が訪問した園芸家=はるまき氏(高知市・薔薇愛好家・園芸史研究家・平成19年9月記述)の調査による。
 
注5
 

薔薇が描かれた森琴石の作品


掲載ご協力者=中嶋昌二氏(美濃焼き窯元)・熊谷正三氏(美濃焼き窯元)

画像ご提供者=黒田正直氏(岐阜県土岐市 妻木八幡神社禰宜)




「平安長春図」

明治36年(1903)/ 紙本淡彩 /中嶋昌二氏蔵

落款=癸卯初春寫於読画廬 栞石

ばら:拡大部分

落款=癸卯初春寫於読画廬 栞石
野ばら:拡大部分

(130.1× 52.7cm)
しのだけ(篠竹)・ばら

 


「花卉小禽図」

明治35年(1902) /紙本著色/熊谷正三氏蔵

落款=壬寅秋日寫於東農妻木宿次 栞石 (妻木で描いた作品)

 

ばら:部分拡大

白梅・金木犀・小菊・ばら・春蘭

(128.7× 51.6cm)
白梅・金木犀・小菊・ばら・春蘭

薔薇の種類は<明治の5名花>のひとつ天国香か?

土岐市妻木の森琴石作品=「解説:美濃焼きと森琴石」・「平成14年9月」・「平成15年8月

 
注6
 

「花外楼」作品=「平成19年6月」に記述

 
注7
 

成子(なるこ)氏煎茶会図録学稿』 
(明治33年8月/全41枚の綴じ稿本)



表紙

3頁目
5席:盆栽展観

(23,5cmx21.5cm) 
(39cmx15,5cm)
(17cmx25cm)
讀畫盧(印)
明治卅三年圭月
成子氏煎茶會圖録学稿
己酉之夏寫 梅逸亮(書き印2つ)
(梅逸の画を森琴石が縮図したもの)


構成
○表紙
○「菊花・小禽図」 明治卅三年夏日寫挙 山名友石 → 画像不鮮明の為掲載不可
○「松鶴図」 己酉之夏寫 梅逸亮(印印)→ 山本梅逸の事
○置物などの極精密図(19枚の薄紙に描かれている)
薄紙の次=和紙21枚に描かれたもの
○第一席 置物の図 茶席全体図
○第二席 置物の図
○第三席 室内見取図(?)
 茶席庭園図(全体、部分)
 庭園と邸外の風景図
○第四席 茶席図など(置物いろいろ、丁丑年用■の文字など)
○第五席 茶席図など(軸や茶器、置物などいろいろ)
 別に七枚綴じのもの=第五席 群芳 三樹園□□ と書かれている

成子(なるこ)氏については目下不明。学稿には姓名の下の名前の記述が無い。煎茶の盛んな泉州(現在の大阪府阪南・泉南市)に多い姓とも聞く。

 
注8、注9
 

森琴石の本草画風の下絵や画稿、森琴石の代表三著書での薔薇図などは、後月に一部ご紹介の予定です。

 
注10
 
「天香園文庫」について
「天香園」は、小山源治氏の号名。天理大学附属図書館に、本草書、国書類300冊を寄贈した。
「天香園文庫」と名付けられてはいるが、300冊の書誌類は、一般図書・貴重図書の各分野に所蔵され、「天香園文庫」名では、小山氏蔵書本は探し出す事は出来ない。
 

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