森琴石(もりきんせき)1843~1921

森琴石 調査情報

平成10年10月~現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成19年(8月)

 
今月のテーマ  七絃琴
【1】森 琴友(七絃琴の号)・江戸時代の琴士
【2】浦上玉堂が製作した七絃琴(米子市立山陰歴史館所蔵)
【1】

森 琴友』の名で、森琴石は 「江戸時代の琴士物語」の中で、江戸時代の琴士を述べるなかで、《明治大正時代迄、まだ七絃琴が弾ける活躍した人物》として、名が挙げられている 注1。琴士とは、文人の嗜み「琴碁書画」の筆頭にあげられる「七絃琴の奏者」の事である。

七絃琴は中国では2500年以上の歴史があり、孔子も頗る琴を愛しまた作曲もあるといわれ、中国文化の中でも特殊な地位にある。しかし日本には琴や演奏法が盛大に持ち込まれた形跡が無いという。

七絃琴が本格的に日本に伝来したのは、徳川時代に「東皐心越禅師 注2」がひろめた事による。七絃琴は歌詞を中国読みするため、一般に普及するには難解すぎ、漢学者など、文人たちの間で広まったが、演奏出来る人は限られていたようだ。その後幕末において琴道の発展に最も寄与したのが、心越禅師の流れを継ぐ「鳥海山樵痴仙(別号雪堂)注3」といわれる。

森琴石の漢学の師匠「妻鹿友樵」は、森琴石の七絃琴の師匠でもある。妻鹿友樵は書と共に「雪堂(痴仙)」から七絃琴を学び、江戸後期から明治期の《当代隋一》 の琴の名手だった。明治18年10月、妻鹿友樵の七絃琴を聞くため、森琴石は依田学海を妻鹿友樵の居宅「三友草廬」に案内した。「依田学海」は自著「学海画夢」で、妻鹿友樵が奏でる七絃琴は、同時代の琴士「井上竹逸 注4「」よりはるかに優れていると評価した 注5

妻鹿友樵は当時古琴七張を有し、その内殊に三琴を愛したことから、その居を「三友草廬」と名付けた。

妻鹿友樵の琴道門下「小畑松坡 注6」、妻鹿友樵門下で、同時に森琴石に画を学んだ「永田聽泉 注7」は琴士として夙に名高い。両者は摂津豊能郡(現大阪府豊中市)の名家で、同郡の村長などを務めた。

大坂洋学校の校長を努め、また明治4年、岩倉具視の「米欧使節団」の通訳として随行した「何 礼之 注8」や、第五代米子町長を務めた「杵村源次郎(号小雅)」も妻鹿友樵に七絃琴を学んだ。

明治新政府が「断髪令」を命じた明治4年、森琴石はこれに従がった。妻鹿友樵及び森琴石の画の師匠「忍頂寺静村」が、その時の様子を描いた 注9。断髪をした森琴石が、香をたき七絃琴を奏じた画である。師匠妻鹿友樵から伝授した、森琴石自筆の琴曲の「操琴帖」が残る 注10

森琴石の、もう一方の漢学の師匠「高木退蔵」の師である「藤澤東畡」は、七絃琴の名手として知られるが、雪堂に七絃琴を学びたいが為に、讃岐から大坂に出てきたほどという。

これまでの調査で、大正期まで活躍した大阪の画家で、琴士とされる人物の資料はまだ無い。 七絃琴も弾け、文人の嗜みは全てこなせる「森琴石」は、《大阪での最後の文人》といえる。

 
注1
 

「江戸時代の琴士物語」(岸辺成雄著/平成12年9月20日刊) 282頁に記述

資料ご提供者=大原俊二氏(米子市史編さん事務局事務総括・米子市図書館協議委員・米子藤樹会理事)

注2
 
東皐=心越禅師 (しんえつぜんし)
東皐(1640-96)は日本に琴をもたらした人物。法名興儔(こうちゅう)、字は心越、曹洞宗の僧。明の杭州金華府の蒋氏の出。呉門の報恩寺にて得度、明の滅亡後西湖の永福寺に移る。1677年に長崎に来て興福寺の住持となったが、まもなく異派の僧の中傷により幽閉された。後徳川光圀に迎えられ、水戸に祇園寺を建てその第一世となった。
 
注3
雪堂(痴仙 ちせん)
出羽鶴岡の人。一向宗の僧。鳥海山人。又は痴仙と号す。
 
注4
井上竹逸(いのうえ ちくいつ)
江戸の琴士。鳥海雪堂にも学ぶ。幕末江戸琴楽の中心人物。
 

上記【1】の文章の一部及び、注釈の略伝は『妻鹿友樵伝』(妻鹿友一著/昭和55年8月1日)より引用させて頂きました。

 
注5
 

「学海画夢 2冊」
依田学海著/湯上市兵衛出版/明治18年10月

表紙

学海画夢 2冊

《三友聴琴 (乙篇)》 

三友=妻鹿友樵の居「三友草廬」の事
聴琴=七絃琴を聴くこと

三友聴琴 (乙篇)

部分概要:明治18年5月、浪華の森琴石と交わる。琴石画を善くし、兼ねて七絃琴に通じる。師匠は誰か?と尋ねると「姓は妻鹿、名は友樵道人。医に隠れ高士なり」と云い、その(琴の)詩を誦えた。・・・・・・・・・一日、片桐楠斎と琴石と、妻鹿友樵の「三友廬」を訪問する。

 
注6
 
小畑松坡(おばた しょうは)
当HP記述ヶ所=「平成13年7月
 
注7
 
永田聽泉(ながた ちょうせん)
当HP記述ヶ所=「門人:大阪府下(摂津)永田琴僊」・「平成13年7月」・「平成19年5月■4番目
 
注8
 
何 礼之(か れいし)
当HP記述ヶ所=「平成12年8月」・「平成19年3月【1】注4
 
注9
 

忍頂寺静村画 「森琴石断髪 弾琴之図」

資料紹介:詩賛「森琴石断髪 弾琴之図」をご覧下さい

 
注10
 

森琴石自筆 - 琴操帖(東皐琴譜初学十六曲が収録)-



表紙 調絃入弄       目次
表紙 調絃入弄



「歸去來辭」の二段 秋風辭
「歸去來辭」の二段 秋風辭


★七絃琴についての知識は「鎌倉琴社」に詳しく書かれています。
また「雑記録 2004 1月7日」には、上記<琴操帖>を掲載して頂いています。

 
【2】

平成16年6月 注3」で少し記述しましたが、米子市にある「米子市立山陰歴史館」には、古琴がニ張所蔵されている。その一つに「杵村源次郎(号小雅) 注1」が寄贈した、浦上玉堂愛用の「萬澄幽陰(寛政四年)」がある。去る7月6日、米子市教育委員会では、この七絃琴が《浦上玉堂の製作によるも》との記者発表が行われた。

同七絃琴は、浦上玉堂が会津藩に召されていた、寛政4年に作られたものである。

明治43年12月15日付けの「因伯時報 注1」には、その事実を物語る記事が掲載されていた。

明治後期「因伯時報」の漢詩欄は漢詩人の作品発表の拠点となっており、大変な賑わいをみせるようになっていた。その中心的存在であった「杵村小雅」は、同年11月10日、市で「浦上玉堂」の古琴を入手した。その喜びの胸中を「因伯時報」の漢詩欄に寄せた。翌月、良友「竹内峴南 注2」が、それに唱和した。下記にその全文をご紹介します。

「杵村小雅」は、上記【1】でご紹介した「妻鹿友樵」の琴道の門人である。「杵村小雅」は、後年(第二次大戦前)、この「浦上玉堂製作の七絃琴」を、のちに山陰歴史館となった、当時の「山陰徴古館」に寄贈した。

江戸後期の高名な文人「浦上玉堂 」は、若くから文武に励み 幕府の医官「多紀藍溪  注3」に七絃琴を学び、七絃琴の非常な愛好家で、また名手でもあった。「玉堂」の号は、中国明代の古琴「霊和」を入手し、その朱文刻印「玉堂清韵」の銘から名付けたほどである。40歳過ぎより世俗に背を向け、琴碁書画三昧の生活に耽っていった。妻が先立った2年後の寛政6年(1894)50歳の時、鴨方藩の大目付の地位を捨て脱藩した。中国の文人に憧れ、風雅の道を極める為、ニ子(春琴・秋琴)を連れ、諸国を漫遊し、其の地の趣味人と交わるなどした。 注3
大坂では、岡田米山人・木村蒹葭堂・田能村竹田らと交流した。森琴石はそれら大先輩の縮図や模写画を残し、叉箱書などをしている。
「浦上玉堂」の生き方は、文人の憧れの的であり手本でもあった。

鳥取池田藩の城下町米子は、東に伯耆大山を仰ぎ、北に三保湾、西に中海を配して豊かな自然に恵まれている。近世は城主不在の城下町で、町ごとに違った産物の専売が認められて繁栄し、城下町商人により「商都米子」の基礎を作った。その風土は、地域を愛し文化に誇りを持つ多くの風流人を生んだ。「杵村源次郎」もそのうちの一人である。去る5月には、七絃琴の演奏会が開かれるなど 注4、米子では現在も風雅を愛する(文人趣味の)気質が受け継がれている。
米子と森琴石周辺は、七絃琴がとりもつ「縁」で結ばれている。

 
注1
 
杵村源次郎(きねむら げんじろう)=杵村小雅(1861-1944)
名源次郎、号小雅。米子の生まれ。七絃琴の名手。「琴士」として名を残す。大阪の儒医で琴の名手「妻鹿友樵」の門に入った。明治23年(1890)、小雅は儒者仲根香亭(1837-1913)の紹介で、大阪の友樵を訪ね、七絃琴の指導を仰ぎ「南薫操」一曲を学んで帰郷した。その後琴を離すことなく読書弾琴に明け暮れる日日を送る。その後もたびたび友樵を訪れ指導を受けた。漢詩家として米子「八十八湾吟社」の中心的存在として、「因伯時報」の漢詩欄に投稿し、また大正8年、米子公会堂で開催された「第10回山陰大詩会」の責任者になるなど、山陰の漢詩人として大活躍した。第五代米子町長をも務め、退職後は骨董商を営んだ。氏が愛用していた琴は、現在「湯島の孔子廟」にも保管されている。

・・・『山陰の近代漢詩』(入谷仙介,大原俊二著/山陰の近代漢詩刊行会/2004年11月)の後半《鳥取県下の漢詩吟社(大原俊二氏文)》より・・・

 
注2
 
因伯時報
明治25年2月に創刊。昭和14年(1939)、国策に沿い「鳥取新報」、「山陰日日新聞」の二紙と合同し、一県一紙の「日本海新聞」が生まれた。
 
注3
 
竹内峴南(たけうち けんなん)
高知の生まれ。小原家から竹内家の養子となる。土佐自由民権運動に関った。漢詩家として鳥取「鳥城吟社」の中心的存在。また「因伯時報」の主筆で、明治41年、米子で開催された山陰大詩会の発起人の一人。翌42年5月、第二回山陰大詩会では鳥取からただ一人の出席者。43年2月「鳥取藩史編纂常任委員」に任じられ「因伯時報」を辞して東京に行く。

土佐自由民権運動には「古澤滋(介堂)」がいる。⇒「平成19年6月■3番目&注4

・・・『山陰の近代漢詩』(入谷仙介,大原俊二著/山陰の近代漢詩刊行会/2004年11月)の後半《鳥取県下の漢詩吟社(大原俊二氏文)》より・・・

 
注4
 
多紀藍溪(たき らんけい)
丹波の人。名は元悳。又は永壽院と号す。
 
注5
 
米子市での講演と七絃琴のコンサート
2007.5.12
「源氏物語と王朝文化」 ―琴の音によせて―
講演:原 豊ニ氏
演奏:伏見无家氏(鎌倉琴社主宰・東洋琴學研究所研究員)
 

「因伯時報」 漢詩欄  より

~「杵村小雅」の漢詩に「竹内峴南」が唱和したもの~

★資料ご提供者=大原俊二氏
★翻刻及び現代語訳=大原俊二氏
(米子市史編さん事務局事務総括・米子市図書館協議委員・米子藤樹会理事)
★記事の内容を良く理解いただく為、現代語訳を先に記載させて頂きました

現代語訳

『因伯時報』 ―明治四十三年(1910)十二月十五日付―

藤小雅君から、新に玉堂琴士の製作した古琴を手に入れたと聞いたので、とりあえずこの歌を作ってお贈りする。

峴南 竹内吉

藤君が新たに手に入れた古琴は   (藤君=杵村小雅)
かの有名な琴士玉堂製作したものだというじゃあないか。
玉堂は 琴を命よりも大切にして
かつて苦心して催馬樂の楽譜を作った人だ。
琴は秘蔵されて
時代を経た古色は すでに漆の光を失わせている
螺鈿(らでん)で徽(き)を作り、桐を材とし
製作した喜びの字句を 工夫して作っている
その時以来、法隆寺伝来の開元琴について考えてみると
もともと開元琴は昔風であって 飾りけがないものなのだ
玉堂はそれを模作して彈き その音色を好んで
綿袋でこれをくるんで 大切に護ってきたのだろう
藤君がこの琴を手に入れるについては 母が賛成した
藤君の琴の技能はいちじるしく上達したのは
音階の調子を整えるために 絃をあれからこれへと
あるいは強くあるいは弱く しっかり捉えようとしたからだ
藤君は 今や当代の琴士の一人として
その純誠な精神は玉堂とまったく同じといってよい
こころのまま 自由気ままに振舞って
世渡りに 人と溶け合わないことがあっても何の不思議があろうか
こころを削って 琴を學ぶこと三十年
性格はのんびりとしていて 鶴のように楽しみ遊んでいる
十本のきよらかな指が 琴に觸ると音と成り
奥深いかすかな心を ことごとく捉えることに擢んでている
今 この人がこの琴を手に入れたのだ
それがたまたま偶然であったにしても 決して玉堂を辱めるものではない
ただどうして この世から伯牙の故事の喩えはなくなり
音色を聞き分けるほどの友は はるか彼方へ行ってしまったのだろう
陽春白雪の琴曲を 弾きあう者も少なくなって
田舎の俗謡だけが 巧■というのはむなしい
山の曲海の曲があっても 誰もその区別を知らず
ごたごたになっている現実は ただ藤君をなげかせている


ああ 藤君よ藤君よ 信じてなげくがよい
古来、宝石の原石は見分けがたくて 軽く扱われるものだ
春秋時代の伯牙は起きず 江戸時代の玉堂はすでに亡い
世にもめずらしい琴曲の調の その難しさよ!


明治四十三年十一月十日、たまたま市をたずねて古琴を手に入れたものは、おそらく玉堂琴士の製作したものであろう。だから短古を賦し、喜びを記して峴南先生にお贈りする。  

杵村 小雅

古城に 秋風が物静かに
しかも北風のように 身や心を引き締めるかのように衣を吹く
夜は更けていて 月光は重苦しく
寒天に 雁の影はまれである
幸運な男は 新たに琴を提え得ることができて
月の光りを浴びて ゆったりと歩く
誰もわかるまい この私のよろこびを
いや君だけは わかってくれるね この思いを!



琴を彈きながら、藤小雅君が贈ってこられた短古の韻を用いてつくった


竹内 峴南

夜半 明るく光って寢れない
寝ようとしていた床を起き出して 着物を着替えた
琴を弾き 琴にたすけられて すこし自分の思いを尽した
曲は気高く 応えて一緒に弾いてくれる者はないだろう
音階のリズムを整えるのに
絃をあるいは早くあるいは遅く往き返りさせるのだ
彈きやめて 雨戸を開いてみると
松のこずえに 名残惜しそうな月じゃあないか

原文及び 訓読文

『因伯時報』 ―明治四十三年(1910)十二月十五日付―

原文 聞藤君小雅新獲玉堂琴士所造一古琴即作此歌以奇之
訓読 藤君小雅新に玉堂琴士造る所の一古琴を獲ると聞き、即ち此の歌を作り以て之を寄す

峴南 竹内吉

藤居新獲一古琴
云是玉堂琴士之所◆
玉堂愛琴重於命
苦心曾譜催馬樂
雲和之琴係秘蔵
古色鬱然漆光剥
螺鈿作徽桐作材
題欸有字勞雕琢
爾來還視開元琴
開元之琴古而樸
模作以彈其音好
綿嚢盛之愛護渥
藤君所獲母之是
龍唇鳳口入商摧
緝商綴羽絃又絃
一抑一揚隨把捉
藤君即是今琴士
心與玉堂同純愨
自適其適不知他
處世寧怪多圭角
刻意學琴三十年
性閑似鶴姿濯々
十指乾淨觸成音
幽心遠意儘超櫂
今以斯人獲斯琴
偶合洵不辱先覺
唯奈世無■伯牙(■は「喩」か)
知音千載空緬◆
陽春白雪和者寡
下里巴調漫巧詠
峨洋有曲誰識別
徒使藤君嗟混濁
噫(口+歳)
藤君藤君信可嗟
世重頑石輕良■(■は「璞」か)
伯牙不起玉堂亡
希世之調難數々

峴南 竹内吉

藤君 新に一古琴を獲(え)る
是(これ)玉堂琴士のけずる所と云う
玉堂 琴を愛すること命より重く
苦心して曾て催馬樂を譜す
雲和の琴 秘蔵に係り
古色 鬱然 漆光剥ぐ
螺鈿もて徽(き)を作り 桐もて材を作り
欸(あい)に題して字有り 雕琢(ちょうたく)を勞す
爾來(じらい) 開元琴を還り視れば
開元の琴 古にして樸(ぼく)
模作して以て彈き 其の音を好み
綿嚢に之を盛り 愛護すること渥(あつ)し
藤君の獲る所 母は乃ち是とす
龍唇 鳳口 入りて高くうつ
商を緝(つむ)ぎ羽を綴るに 絃また絃
一抑 一揚 隨把(はそく)に従う
藤君 即ち是(これ)今 琴士
心は玉堂と純愨(じゅんかく)を同うす
自適 其適 他を知ず
處世 寧(なんぞ)圭角(けいかく)の多きを怪まん
刻意 琴を學ぶこと三十年
性 閑にして 鶴に似たる姿濯々(たくたく)
十指の乾淨 觸れば音と成り
幽心の遠意 儘(ことごと)く超(すぐれ)て擢(ぬきんで)る
今 この人を以てこの琴を獲る
偶会(ぐうかい) 洵(まこと)に先覺を辱めず
唯奈(なん) ぞ世に伯牙の喩無く
知音 千載に空しく緬ばくせん
陽春白雪 和す者寡(すくな)く
下里(かり)の巴調(はちょう) 巧■空(むな)し
峨洋(がよう)の曲有れど 誰か別を識らず
徒(いたずら)に藤君をして混濁(こんだく)を嗟(なげか)しむ
噫<口+歳>(ああ)
藤君よ藤君よ 信じて嗟(なげ)くべし
世に頑石(がんせき)は重く 良璞(りょうはく)は輕し
伯牙は起きず 玉堂は亡し
希世(きせい)の調の難(かたき)ことの數々


自註、雲和琴之事見玉堂琴記開之禁摸作之事載玉堂先生琴譜



原文 庚戌十一月旬云偶探市獲古琴盖玉堂琴士所造也因賦短古一篇記喜以寄峴南先生
訓読 庚戌十一月旬、偶たま市を探し古琴を獲ると云うは、盖し、玉堂琴士の造る所なり。因りて   短古一篇を賦し、喜びを記して以て峴南先生に寄す。


杵村 小雅
古城氣蕭瑟  北風凛吹衣
夜深月色寒  天 雁影稀
佳人新提得  月下歩遲々
誰知我意中  懐君思依々

杵村 小雅
古城 氣は蕭瑟(しょうしつ) 北風 凛として衣を吹く
夜深く 月色苦(にが)し 天寒く 雁影稀(まれ)なり
佳人 新に提え得て 月下の歩み 遲々(ちち)たり
誰か知らん 我が意(こころ)の中(うち)を君を懐(おも)えば思い依々(いい)たり



原文 彈琴次藤君小雅見寄短古韻
訓読 琴を彈き、藤君小雅の寄せらる短古の韻に次す


竹内 峴南
中宵耿不寢  出床起整衣
授琴聊寫臆  曲高知者稀

引商而刻羽  一速還一遲
彈罷開戸見  松外月依々

竹内 峴南
中宵 耿(こう)として寢ず  床を出で 起きて衣を整う
琴に援(たすけ)られて 聊(いささか)臆(おもい)を寫す
曲は高く 和する者は稀(まれ)なり
商を引きて羽を刻すに 一速 還りて一遲
彈き罷(やめ)て 戸を開き見れば松外に月は依々(いい)たり



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