森琴石(もりきんせき)1843〜1921

森琴石 調査情報

平成10年10月〜現在まで、森家での調査などをご紹介します

■調査情報 平成19年(2月)

【1】

東京都立中央図書館特別文庫室「渡辺刀水旧蔵書家書簡文庫」には、森琴石が「吾妻健三郎」に宛てた書簡が1通所蔵されている。書簡は明治24年12月に書かれたもので、「絵画叢誌」会費納入の遅延のお詫びや、その他が綴られている。文面からは、森琴石が周辺の会員26名を取りまとめている事や、身内の杲田(こうだ)氏など3名が、東洋絵画会の新会員になる事や、退会者が一名出た事が分かる 注1

「渡辺刀水旧蔵諸家書簡文庫」は、旧陸軍中将で、退役後史学の研究に専念した、渡辺金造 (1874-1965・号刀水)が収集した8520通に及ぶ書簡の文庫。幕末から明治にかけての儒学者、国学者のものが多く、武将軍人、歌人、俳人、戯作者、本草学者、医者など、広範囲の人物に及んでいる。他に本草学者伊藤圭介関係書簡を含む 注2。「伊藤圭介」は、先月ご紹介した「田中芳男田中義廉」兄弟の師匠でもある。

渡辺刀水旧蔵諸家書簡文庫目録」によると、同文庫所蔵の書簡には、森琴石周辺の人物が多く見られ、当ホームページ、書簡:「題 琴石」の作者の可能性がある「紫水」や、森琴石門下「舩田舩岳」の儒学の師「石津灌園 注3」も含まれている。

米沢藩医の父の血を継ぐ「吾妻健三郎」は、工作や化学技術にその才能を発揮した。明治7年、開成学校の製作学教場でドイツ人ワグネル注4 に教えを受け、銅版印刷技術を習得した。明治8年には石版印刷の技法開発に成功し、同年出版社「東陽堂」を主宰する。初期の仕事として「田中芳男」から依頼を受けた「農事図解」の翻刻版を手がけた。

「吾妻健三郎」は、明治20年より「東洋絵画会」の機関紙として「絵画叢誌」を発行、明治22年には日本で最初の雑誌「風俗画報」を刊行するなど、明治期の印刷出版業大きな足跡を残した 注5。「絵画叢誌」は、大正6年の第345号まで続き、「絵画叢誌」には、森琴石の挿画や作品の写真、記事などが掲載された 注6。手元に「絵画叢誌 第80巻 注7」の附録や、製本前のものと思われる刷りもの類が残る。

大正2年の「絵画叢誌 第314巻」では、森琴石が文展の審査員に推挙されるに際し、現今画家の姿勢を憂慮する談話があり、談話に添えられた略伝には、森琴石が南画振興に尽力した画会名が記されている。
当事欧米化の波に押され、知識の価値観が大きく変化し、禅思想や儒学の教養に基づく中国の奥深い精神性を持つ南画は、美術界において急速度で衰亡へと向かった。、大正2年、そのような逆風にある中、森琴石は文展審査委員に推挙された。森琴石が苦悩の末の決断で引き受けた挨拶状が残る 注8

森琴石は、その生涯において、幕末〜明治期の文化に貢献した多くの人物との関わりが見られるが、僅かに残る森琴石の日誌からも、その片鱗がうかがえる 注9

 
注1
 
東京都立中央図書館特別文庫室「渡辺刀水旧蔵書家書簡」
[渡7898] 森琴石→吾妻健三郎<1通(17.0×43.5)畳物>による

雅友・知友「吾妻健三郎(二)」をご覧ください。

★同書簡の情報ご提供者及び略読解=成澤勝嗣氏(小磯良平美術館学芸係長)より、平成11年6月にご提供頂いていました。  

 
注2
  旧蔵諸家書簡文庫目録」の解説による
 
注3
  石津灌園(いしづ かんえん)=名賢勤・發・通称發三郎・号灌園・京都の儒者・師:萩原西疇・明治24年、49歳歿・・・・伝記は後月ご紹介します。
 
注4
 

ワグネル(Wagenner,Gottfried)

◇明治初期のわが国化学工芸会の指導者。1830年ドイツ ハノーバー市に生まれ、ゲッチンゲン大学で化学を専攻。明治3年36才の時肥前国主鍋島氏に招かれて来朝、有田陶器の改良に従う。
◇のち東京大学、東京工業学校などで教鞭をとり、傍ら<江戸川陶器製造所>で新樣陶器の焼成を指導して<旭焼>を生み出した。
◇又内外各国の展覧会、博覧会などにわが国の工芸品 特に窯芸品の出陣に力を尽くした。◇功によって明治11年勲四等旭日章が贈られた。同25年再び来朝し、同年9月東京神田駿河台の寓居で歿した。時に62才。
−「日本美術辞典」(野間清六・谷信一編/東京堂/昭和27年)より−

 
注5
 
使用参考資料
『米沢市史資料 第12号 続米澤人国記 』(米沢市史編さん委員会編・昭和58年)
〜「吾妻健三郎」の項;執筆者 松野良寅氏〜
 
注6
 

―東洋絵画会・東洋絵画叢誌・絵画叢誌― 経緯と 森琴石関係略記

明治12年(1879)
日本最古の美術愛好団体 「龍池会 」 発足
龍池会」の発端は、佐野常民・河瀬秀治・山高信離らが、上野不忍池にある弁天社の境内に集まり、古書画の展示会を開催したことによる
明治15年10月(1882)
「第一回農商務省内国絵画共進会」開催 森琴石は「月ヶ瀬真景図」で褒状受賞)
明治17年(1884)
「第二回絵画共進会」開催 →森琴石は二等褒状受賞=「美術五十年史」(鱒書房・S18年刊)による
明治17年(1884)10月
東洋絵画叢誌 第一集」創刊 (東洋絵画会事務所内叢誌部

16集=明治19年6月 まで
東洋絵画会龍池会からの呼びかけに応えて結成された。
☆明治17年(1884)秋、画家及び絵画奨励家十人余りが、不忍弁天社において数度にわたる論議の結果、野口勝一を中心とする東洋絵画会を結成。主任を野口勝一、総裁を北白川宮殿下、会頭を品川弥次郎とし、事務所を同社内におく。日本絵画の振興を計り、東洋絵画叢誌を発行。(☆=筑波大学日本美術シソーラスデータベース作成委員会編 による)
明治17年(1884)10月
大阪絵画品評会開催=提唱者:森琴石・魚住貫魚・十市王洋・水原梅屋
明治17(1884)年11月27日
東洋絵画叢誌 第二集」発行 (東洋絵画会 叢誌部)
   ↑↓
「東洋絵画叢誌 第二集」には、「東洋絵画会」は特別会員71名、通常会員99名で構成されており、森琴石は特別会員として名が列せられている。
奥附
東京都下谷区茅町一丁目五番地 東洋絵画会事務所内
毎月一回発行/発兌所  叢誌部
持主 曽我 徳
編輯 半澤泰蔵
印刷 瀧川守郎
東京都下谷区徒士町一丁目  東洋絵画会印刷所  印書館
明治18年(1885)6月
龍池会報告」創刊
龍池会報告」=龍池会会務の報告を主に、会員論説なども掲載、一種の美術雑誌の性質をもつ。外国の美術学校制度や規則、美術協会の組織や規約などを紹介するなど、西洋美術の広範囲にわたり、進取の気象に富む議論を展開(筑波大学日本美術シソーラスデータベース作成委員会編 より)
明治19年(1886)4月
「東洋絵画共進会」開催   →「平成18年10月」に記述
明治20年(1887) 
「龍池会」が拡大改組され、「日本美術協会」設立。東洋絵画会は、この日本美術協会に合流。
明治20年(1887)2月
「絵画叢誌 1巻」(絵画会叢誌部)創刊
明治20年9月「絵画叢誌 3巻」森琴石画「果菜之図(第6図)」掲載
明治21年9月「絵画叢誌 18巻」 森琴石挿画「人物山水(第1図)掲載
明治23年9月1日「浪華学画会絵画共進会」(大阪府立博物場)
平成18年10月 注4,5」に記述
明治29年11月 森琴石「全国絵画共進会 奨励委員嘱託に任命
(この年「大阪絵画共進会」開催される)
明治31年10月 「第5回日本絵画協会,第1回日本美術院連合絵画共進会
(於東京、谷中日本美術院)に 森琴石画「松林談禅」 2等褒状
平成16年9月 注4」に記述
明治32年 森琴石「東洋美術奨励会」より 感謝状=森家蔵
明治33年 森琴石東洋美術奨励会 審査評議員」&「東洋美術奨励会
第1回撰画展覧会 特別賞」=森家蔵
明治40年1月 「絵画叢誌 237号」に 森琴石画「桟道騾網」写真掲載
大正2年8月「絵画叢誌 314号」に 森琴石「新森琴石翁談」談話掲載
第345号=大正6年3月 まで

★印=高瀬晴之氏(姫路市立美術館)より、平成14年にご提供頂きました。

「東洋絵画叢誌 第二集」について 
小林昭夫氏(千葉県松戸市)作成の 『らんだむ書籍館 バックナンバー8 :「東洋絵画叢誌」 第二集 』=から引用させて頂きました。
 
注7
 

「絵画叢誌 第八十巻」附録

「七福神図」

↓珂北野口勝一并書

 






(43.0cmx63.5cm)         明治26年11月7日 逓信省認可

発行兼印刷人:吾妻健三郎/編集人:菅原白龍
東京市神田區通新石町三番地
絵画叢誌発行所

 
注8
 

文展審査員拝命時の挨拶状

↑ 中ほどに破れあり

謹啓時下爽氣初めて生し
梧竹風戰くの候に相向かひ
候處益々御清適にて亘ら
せられ候段奉慶賀候偖今
回不肖文部省美術展覧會審

査委員に被任候に付ては
老躯以て其任に堪へざる
義と存じ御辭退可致かと
も存候得共飜て熟考仕候
には此際奮起以て古骨に

鞭つの時と決心致し御受
致し候處早速御鄭重なる
御祝詞を拝載致し誠に慙
愧に耐へざる次第に御座
候然る上は至誠一貫以て

大任を全うし諸賢の御祝
詞に酬ふ覺悟に御座候先
は蕪詞を以右御禮申上度
如新に御座候   敬具
大正二年  月  日
森 琴 石

殿

 
注9
 

森琴石日誌での美術関係記述(一例)

明治四十二年八月廿三日 晴
○午前、伊良湖*、昨日之件ニ而来ル、自分意見 *伊良湖晴洲=美術雑誌発行者
 ヲ述、夫ヨリ平井直水方ヘ同行罷越ス、伊良湖
 荻尾桃嶺*方ヘ罷越し咄合、自分意見之通相成、 *萩尾九皐 / 西川桃嶺か?
 大阪絵画会委員会相開候様、相成旨、申来ル

森琴石と平井直水は、師の深田直城ともども親交していた。

明治四十五年七月廿四日 曇
永松春洋氏属、小切四枚山水図出来ニ付
 小包郵便ヲ以相送ル、
中森※来ル、
東京やまと新聞大阪支社記者・大内松甫
 来訪有之、当地絵画上之件、聞取ラル*       *取材に来た
東京帝国絵画新報主筆・吉岡班嶺来訪、
 斯道*之現況聞合有之、              *このみち=絵画会

中森=森琴石の画の斡旋を盛んにしていた人物、日誌には頻繁に名が出るが詳細不明

 
当HPでの、東洋絵画会・絵画共進会の記述がある人物など(但し記述漏あり)
略伝:美術関係=池田雲樵・小田半溪・垣内雲りん・兼本春篁・久保田米僊・滝和亭・田能村直入・田結荘千里・十一王洋・永松春洋
門人;岐阜県 福田哲山福田梅渓/兵庫:田川春荘/福井:岩田寿石/岡山:藤井琴谷
調査:「平成18年10月
雅友・知友:村上我石
師匠・先輩:行徳玉江・桑田墨荘・塚村暘谷・堀井玩仙
関連資料「ポンペと中野雪江」、中野雪江の事歴の中、
「明治十五年第一回大阪絵画共進会、同十七年第二回東京絵画共進会に出品入選し、死亡前年の二十三年の大阪同会では、三等銅賞・・・」とあり。
明治二十三年の・・・・=[浪華学画会絵画共進会]の事では?と思われる。平成18年10月 注6」の<小田半溪 「浪華学画会絵画共進会賞状」>をご参照下さい
 

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